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eggchicken's diary

ゲーム好きプログラマーの日記

ゲームと緊張について

 三日も雪が降り続いている。最高気温はマイナス三度。道路も、屋根の瓦も、庭木も雪に覆われてまぶしく感じるほどに白い。車も通らない道を制服の中学生が三人並んで歩いている。少し外に出てみたが、足首まで埋まるほどの積雪に心がしぼんだ。一時間もぐずぐずしてから、会社を休むことに決めた。家で働くこともできるかもしれないが、何かそういう気分にはなれなかった。冷えた指先で、日記を書くことにする。

 イベントが開催されるということで、久しぶりにスプラトゥーンを遊んだ。簡単に言うと、水鉄砲のような銃で撃ち合うゲームだ。しばらく離れていたが、やってみると、やはり面白い。ただ、どういうわけか、いつもよりひどい疲労感を覚えた。

 やられる瞬間に全身がこわばる。相手を倒す時も同じようになる。決着が着くごとに我に返って、もっとリラックスしなさいと自分に言い聞かせる。身体を伸ばしてみる。それでも、ほぐれない。一時間も遊んでいたら、すっかりくたくたになっている。緊張からくる震えは何試合かすれば収まるけれど、このこわばりがどうにもならない。仕事で感じたこともないような肩こりがあった。

 危険を感じた時に体がこわばるように、本能的な反射がそうさせるのだろうか。大げさな話だが、戦場で戦う兵士のように、命のやり取りを擬似体験しているのではないかと思った。スプラトゥーンでは、相手がどこから襲ってくるかわからない。また、主観視点に近いから、格闘ゲームなどと比べると危険を錯覚させる要素が強いのかもしれない。

 このこわばりを取り除くには、どうするのが良いだろう。一番わかりやすい方法は、身体を慣れさせることだろう。繰り返し同じことをして、危険ではないということを身体に覚えさせる。わざと無防備なままに前線に出て、弛緩した状態で倒されるなんていうのも一つの訓練になるかもしれない。スポーツ選手みたいに決まったフォームやルーチンを定めるのも効果がありそうだ。

 もっと楽にプレイするには、緊張する場面を減らすことも良いかもしれない。音、痕跡、戦場の敵の数、敵がよく潜んでいる位置、そういうものを読み取って、いま命の危険があるかどうかを察知できるようになれば、少しは緊張しなくなるだろう。戦場で常に緊張しているから疲れるのであって、危険がある場面だけ緊張していればもっと疲れないはずだ。

 他に考えてみると、プレイ環境の気温も関係しているかもしれない。夏頃遊んでいた時は、上のようなこわばりをそれほど感じなかった。暖かい部屋、暑い部屋で遊んでいるときは、自然と身体がほぐれているのかもしれない。

 ゲームを遊んでいるときの心身の状態について、もっと改善できる部分があるのではないかと度々思う。でも、遊んでいるときは感情に振り回されて忘れてしまう。そのままでも十分楽しい、むしろそのほうが楽しい、と言われるかもしれない。もっともな意見だが、楽しみの他に、何かを得ているのだと思いたくて、そんなことを探したくなる。成長する種。経験値のようなもの。何かを教えてくれる石。そういうものが転がっているのではないかという夢を見たくなる。

なぜ神様は人々を救わないのか

 ここ一ヶ月は毎週三回くらい鍋ものを食べた。身体が温まるし、すぐ作れるからこれが一番良いのだと母は言う。もちろん飽きているのだけれど、文句はない。薄味の熱いスープをすすりながら、柔らかくなったキャベツを食べるのが、たまらなく美味かった。ストーブの傍らでは、猫が腹を出して眠っている。テレビでは年末の特番が流れている。こたつがないことだけが心残りだ。

 機会があって手元にあるいくつかの漫画を読み返していた。特に、これはという発見があったのが「純潔のマリア」の一巻だった。魔女マリアが感情を露わにして大天使ミカエルと戦う場面がある。戦争で沢山の人が死んだり、村が野盗に襲われているのを神はなぜ見過ごすのか、なぜ人々を救わないのかと怒り叫ぶ。

 僕は「神様などいない」と考えている立場なので、存在しない神に救いを求める事は、不毛だと思う。けれど、純潔のマリアの世界の中には神は実在するものとして描かれている。それなのに、人々を平和と幸福に導こうとはしていない。じゃあ、神様はどうしたいのか? その問いかけは興味深いもののように思えた。

 神様は、誰かの面倒をみることより、何かを作ることのほうが好きなのかもしれない。神様にとっては創造することが一番の楽しみだとするなら、その後勝手に走りだした生き物たちと関わらないのもうなずける。ソフトウェアだって、メンテンナンスするのが一番手間がかかる。だから、作る楽しみだけ味わいたい気持ちは、実に共感できる。もうどこか別の星で、粘土をこねて、何を作ろうかと頭を悩ませているのかもしれない。火星や水星だって、作りかけの失敗作かもしれない。

 もっと別のイメージを探る。神様は、生み出すことに力を使い果たして、死を待つ老人のように横たわっているだけなのかもしれない。人々が争いに向かっていく姿を見て、涙をこぼしている。もっと良いかたち、もっと良い社会が作れるはずなのだと嘆きながら、しかし干渉することができない。誰一人助ける力もなく、ましてや戦争を止める力などもない。ただずっと無力であることを謝りながら、遠くで見つめているのかもしれない。もしそうなら、悲しいことだ。それと似た人間もたくさんいただろう。悲しいことだ。

 もっとずっと、自分勝手な理由かもしれない。たとえば、人が悩み苦しんだり、不幸に飲まれ壊れたりする姿を見て、快感を覚えているかもしれない。他人の不幸を通じて、自己の安全や平穏をかみしめるのは、特別な行為でもない。品のないことではあるけれど。それとはちがって、ただただ退屈を持て余しているのかもしれない。すべてがうまくいく世界を一通り体験した後、一周回って「なにもしない」ことを選択している。芝居を楽しむ観客として座っているのか、あるいは科学者のような冷たい視点で観察しているのか、どちらの可能性もある。

 もっと、人並み外れた理由かもしれない。世界を統べるものとして、文明の成長を待っているとしたら、どうだろう。戦争の悲惨さが広く知られ、多くの人間がそれを阻止しようとするような社会の完成。そういうものが、はたしてあるだろうか。あるいは、現状が理想だと考えているのかもしれない。戦争も天災も、命が失われることも、受け入れるべきだと考えている。どんな不幸も、どんな幸福も、一人ひとりが何も感じなくなれば、望ましい形というものが失われて「そのままで良い」ということになる。

 色々な神様の姿を思い浮かべたけれど、やっぱり、親しみが持てる神様のほうが好きだ。すべてを超越した何かであるよりも、偏屈なおじいさんであるほうが好きだ。人知を超えた正しい判断よりも、意志のある失敗のほうが好きだ。だから年が明けて神社にお参りすることがあれば、そんな姿を期待しながら手を合わせて来ようと思う。

なぜ僕はラジオを聞くのか

 夜、街路樹の電飾が光っているのを見かけて、ずいぶん気の早いことだと思った。けれど、それから数日後には雨が振り、そしてぐっと気温が下がった。冷たい風が、上着の生地をすり抜けてくる。もう冬は目前にある。

 ここ一年ほど、ラジオを聞くのが気に入っている。ガンダムサンダーボルトの主人公が聞いているような洒落た音楽番組ではなく、ゲーム(チェンクロラジオ)やアニメ(のぞえりラジオガーデン)それから、声優個人の番組(人生道でも飯田里穂)なんかを聞いていた。

 ラジオのことを誰かに話そうと思ったのだけれど、思い浮かべても「これが面白い」と言い切れるような何かを見つけられなかった。内容といえば世間話や大喜利、連想ゲームみたいな他愛のない遊び、あとは番組に関連する商品のお知らせ、といったものだ。ラジオのもたらす情報や話題が興味深いというわけではないように思う。でも、家に帰ると何時間も流しっぱなしにしていたりする。なにか、不思議な魅力があるのは確かなように思われた。

 もう一度注意しながら、改めてラジオを聞いてみると、ゲームやアニメのよくある他愛のない話で、共感できることが心地良いのだとわかった。たとえば、どうしようもなく好きなキャラについて語ったり、泣ける場面について熱く語ったりすること。他には、実はこんな仕掛けがあるんじゃないかという妄想も良い。ともかく、好きな作品であれば、話題はいくらでもある。

 思い返せば、小学生の頃なんて、ほとんどそういう話題しかなかった気がする。熱中していたゲームや漫画について話すことは終わりがなく、とにかく楽しかった。幼い頃に触れた作品が思い出深いのは、仲間とその楽しさを共有できたことも影響しているのかもしれない。そういう素朴な心地よさ、気心の知れた友人と雑談しているのと似た感覚を、ラジオは与えてくれる。

 こういった良い感覚を生み出す元になっているのは、ラジオの出演者が少人数であることだと思う。普通、ラジオの出演者は二人、多くても三人程度しかいない。毎週のように見慣れた面子で、小さな話をする。回を重ねるごとに、緩みが生まれる。間の抜けた話、ささやかな自慢、仕事の意気込み、一風変わった趣味や習慣。そういう人柄に触れることが妙に心地良い。ああこの人は面白いな、好きだなあと感じられる。

 心が震えるような、頭で火花が散るような特別さはそこにはないけれど、不思議と吸い寄せられるような安心感がある。最近始まったばかりの「ゆゆらじ」もまさにそういう雰囲気をたたえている。これは特定のアニメやゲームに関連した番組でもなく、動画付きなので相手を選ばない。慌ただしく時間が過ぎていくことに、疲れや寂しさを感じている人は聞いてみると良いんじゃないかと思う。

【第1回】RADIOアニメロミックス 内山夕実と吉田有里のゆゆらじ ‐ ニコニコ動画:GINZA

 

家事について

 朝の寒気がはっきりと感じられるようになってきた。青々と波打っていた水田の爽やかさを書こうと思っていたけれど、その機会もなく実りの時期は過ぎ、刈入れが終わって今はもう丸裸になってしまっている。どうにも、時間がすぎるのは速い。

 ちょうど毛布を引っ張りだした頃、急に母が不調を訴えだした。すぐに治るだろうと思っていたけれど、長引いている。小さな病院でも、大きな病院でも診察を受けたものの、原因はわからなかった。今もまだ長い時間を布団の上で過ごす生活が続いている。ただ、食欲は出てきたので少しは回復したのだろう。

 ともかく、そういったことがあってから、母に任せきりだった家事について考えなければならなくなった。父はほとんど家事をする気がなかった。食事はコンビニの弁当で良い。ゴミはあふれても気にしない。洗濯をしたくないから着替えなければ良い、食器洗いをしたくないから割り箸や紙コップを使えば良い。そう考えているらしい。

 僕も普段家事をしないので、いつもどおり過ごしていると、家が汚くなった。洗濯物が山積みで着る服がなくなったし、台所は汚れた食器であふれ、カビの生えた鍋が放置されていた。空き缶とコンビニの袋に包まれたゴミがそこら中に転がっている。

 普段、何一つ考えずゲームばかりしているのだが、この時ばかりは居ても立ってもいられなくなって、まずは、ゴミをひたすら捨てた。テレビにかじりつくばかりで、家事をしようとしない父に腹が立ったが、すぐに期待するのを止めた。

 次に、切らしていた歯磨き粉や、その他の消耗品を買ってきた。飲み物を買ってくるのが重たくて、自宅でお茶を淹れるべきかと思ったが、急須にはカビが生えてしまっていたので諦めた。維持されるためのコストが払われなくなれば、ものは簡単に失われるのだと知った。

 洗濯機を回して、外に干した。肌着のような傷みやすい服はネットに入れて洗えと母から指示があったのでその通りにした。食器を洗って、指がふやけた。シンクに溜まっていた生ごみは菌が繁殖して、表現しがたいグロテスクな物体になっていた。悲鳴を上げながら始末した。こんな時は、絶対に視力が低いほうが得をしていると思う。

 慣れないことをしたせいか、ぐったりしたが、それでもできないことはないな、と思った。プログラミングの仕事をしている時よりも、家族に貢献しているという気持ち、誰かのためにはたらいているという手応えがあった。生活に必要な物を満たしている、人間らしい活動をしているという感覚もある。それはゲームをしている時間と比べると、奇妙な爽やかさがある。

 もしかすると、普段は退屈だからゲームをしているだけなんじゃないだろうか。そんなことを思った。本当は別にゲームが好きなのではなく、空いた隙間を埋めているだけなのではないか。虚しい考えだと思った。けれど、そんなものは杞憂だということがすぐにわかった。数日後には、当たり前のように、楽しくゲームができていたからだ。

プログラミングの楽しい所

 連休はあっという間に過ぎ去って、気がつけばもう九月が終わろうとしている。すっかり暗くなった道を歩いていると、雲の合間に、まぶしいほどの満月が見えた。ただの晴天よりもずっと情緒があるように感じられた。普段、単純さを好むくせに、このようなものに心引かれるというのは、いったいどういうことだろう。

 長めの休日があったので、個人的にゲームを作っていた。なかでも一番面白かったのは、モンスターを考える作業だった。最初は弱そうなモンスターを考える。弱いとはいえ、少しは気持ち悪い要素がほしい。そうすると、どんなRPGでも出現する「スライム」が、やはり適任だと感じる。もちろん、一匹では寂しいのでもっと数を考える。頭のなかで弱そうな生き物を探す。ダンゴムシなんてどうだろうか。小さく丸まって身を守る技を持っていそうだ。ダンゴだと弱そうだから鎧をつけていることにしてヨロイムシにしよう。

 こんな風に、モノとモノを組み合わせて何かしらモンスターを作る。名前から姿まで分かりそうなものにして、能力を一つだけ付け加える。他のモンスターと協力するような奴はどうだろうか。戦っていると成長して強くなるような奴はどうか。そいつと戦う時、プレイヤーはどんなふうに苦しむのか。うまい対策はあるのか。さすがに何十年もゲームばかりやっているおかげで、するすると次のアイデアが浮かんでくる。出てこなくなったら、生物図鑑を眺めたりするのも良さそうだ。

 二十個くらい思いついたところで、一番楽しい時間はお預けにする。どんなにモンスターを書きあげたところで、動かすための舞台が必要なのだ。そういうわけで、プログラミングに着手する。プログラミングが楽しくないかというと、そうでもないのだけれど、一番楽しい時間には劣る。だんだん飽きてくるので、続けるために、プログラミングの楽しい側面をもう見つめてみよう。

 わかりやすい面白さの一つは、プログラマの指示に対して、コンピュータが反応してくれることにあると思う。あらゆるプログラミング言語で最初にやることといえば、コンピュータに Hello World と表示させることだ。自分以外のものが、自分の命令に従ってくれる、意図通りに動いてくれるという単純な喜び。もしかしたら、犬にお手を覚えさせるように、コンピュータに愛情を持っているプログラマもいるかもしれない。

 それからもう一つは、全能感。プログラミングができれば、なんでもできるという錯覚を与えてくれるほど、コンピュータは万能な力を持っている。スマートフォンを見てみれば、そう感じるのも納得できるかもしれない。iPhone に入っているあらゆるアプリは、プログラミングによって生み出される。いくつかの工程があるとはいえ、プログラミングなしにアプリが生まれることはない。それを支配している、使いこなすことができる、という感覚は、うっとりするほどの魅力がある。

 後もう一つ。美しさを追求する楽しさがある。プログラミングはコンピュータに対する命令書(プログラム)を作ることだ。命令書というとそっけないものだけれど、それは意味を持つ文の連なりだ。言葉があって、表現があって、順序がある。こうして言い換えてみれば、なんとなく個性や創作性が生まれてくるということが伝わらないだろうか。美しさにも色々な基準がある。一番プログラミングと関わりが深いのは、無駄なく、的確な動作をする機能美だと思う。数学の証明のように、発想を一般化して、無駄な表現を削って、問題を解決する。オイラーの等式が美しいと認められているように、完成されたプログラムもきっと美しい。

 思いついたことを書いただけなので、他にも、まだ楽しい要素があると思う。わざわざ日頃、こんな会話をすることもないけれど、プログラマは皆、何かしらの思いがあってプログラミングをしているんじゃないだろうか。酒の入ったところで、上のような話をふっかけてみるのも面白いかもしれない。

囲碁の見かた

 気温はゆっくりと下り、蝉ももう鳴くのをやめてしまった。遠くで打ち上がる花火の音が聞こえる。窓越しに空を探してみたが、暗い雲があるばかりだった。聞き間違いだったかもしれない。

 食事時、ぼんやりとテレビを見ていた。NHK囲碁番組が流れている。囲碁なんてルールもろくに理解していない。石で囲めば石が取れる、ということだけしか知らない。それでも、解説を聞きながら注意深く眺めていると、基本的な駆け引きが少しだけ分かった。

 相手が白石を打つ。その石を取るには四つの黒石で上下左右を囲む必要がある。まずは黒石を白石の隣に置いてみる。相手は白石が取られるのを嫌がって、白石の隣にもう一つ白石を並べる。すると、白石の面積が大きくなって、それらを囲むのに最低六個の黒石が必要になる。黒のプレイヤーが攻めるのに手数がかかるので、白のプレイヤーは他のところを攻めることができる。これが、シンプルな攻防だ。

 攻めようとする石は斜めに置かれる。斜めに並んだ石は、上下左右が空いているために、分断されやすい。それを防ぐために、L字につないだりすることも多い。

 攻めに手数がかかるゲームなので、簡単に石を取ることはできない。そこで、置き石を使う。もし、相手の石を囲うための石が一つ置いてあるなら、攻め手を省略できる。たとえば、もし相手が置き石の隣に石を置いたなら、すぐさま四個の石で囲む攻めができる。これはもちろん、守りにも使うことができる。

 囲碁の定石では、いきなり中央で戦うのではなく、盤面を上下に四つ折りした区画に分かれて戦うようだ。囲まれる、勝てないとわかった区画は諦めて、他の場所を攻める。そうすることで、負けそうな区画に石をつないだり、敵の攻め石を奪ったりすることができる。

 実に不思議なことに、ある戦場で、どうがんばっても石が囲まれてしまう、ということがわかったとしても、その戦場の決着はつかない。なぜかというと、手数がかかるため。攻め側が決着をつけようと動いたとしても、守り側が他の戦場を攻めてしまう。ゲーム全体としての勝ちを狙うなら、どの戦場にも気を配らなければならない。各戦場は離れているとはいえ盤面はつながっているので、異なる戦場の石が、置き石として機能する。そのため、一旦勝ちが確定した戦場であっても、油断することはできない。

 四つの小さなコロニーがライフゲームのように成長していく。終局の盤面を一目見ても、白黒の散りばめられたキレイな模様にしか見えない。極めてシンプルなルールから生じる、複雑な駆け引き。脈絡なく石を並べているように見えて、確かにそこには理屈がある。思いがけない魅力を発見して、ゲーマーとして成長したような満足感を覚えた。

「CHAOS;HEAD NOAH」の感想と、ある種のオタクの生き方について

 梅雨と台風が過ぎてから、殴りこむように猛暑が訪れた。もはや冷房なしではいられない。アイスクリームだのなんだの氷菓子を父が大量に買ってくるのだが、僕の気が向いた時には冷凍庫は空である。それもまた暑さのバロメーターなのかもしれない。

 「CHAOS; HEAD NOAH」の一周目をクリアした。主人公の西條拓巳を見ていると、オタクのみっともない部分を見せつけられているかのようで辛い。自己中心的で、被害妄想が強い。臆病なくせにプライドは人一倍高く、他人を見下している。

 彼のふるまいを見ていて、なぜそうなってしまうのかと、始終やきもきしていた。それでも、さんざん逡巡した後でヒロインを救うために立ち上がり、剣を見出す場面は心を揺さぶるものがあった。それまでストレスを溜めに溜めたぶん、開放感がすばらしかった。

 ところで、彼の心の不安定さ、未熟さはどこから来るのだろうか。いったい、どうだったら見ていて安心できるのだろうか。

 アニメやゲームは、現実と切り離して楽しむことができるものが多い。どこかへ出かける必要もなく、誰かと関わることもない。つまり、容姿、衣装、立場、礼儀など、あらゆることを気にする必要がない。どんな人でも、閉ざされた精神の世界で、物語だけに浸ることができる。

 このことが、現実世界を嫌う人々の安らぎの場になっている。スポーツも駄目で勉強もできず、顔のつくりは不細工で、恋人も友人もなく、現実世界に期待できそうなことは何もない。楽しく過ごしている人がいる中で、どうしようもない焦りや、閉塞感を抱いている。現実にコンプレックスを抱いている人にとって、精神だけで成立する世界は、心地よい居場所になるだろう。

 しかし、アニメやゲームを愛するあまり現実をおろそかにすると、悪循環が起こりうる。出かけずともコンテンツが配信されるから出無精になる。運動もしないから肥満になり、健康を損なう。誰とも会わないから髪は伸び風呂にも入らず、着替えもしない。不衛生になる。人との関係が疎遠になる。そうして、社会で好まれない人間になる。社会で好まれない人間は、つまはじきにされる。自分の生きる場所は現実ではないと思い込んでしまう。辛い現実を見たくないがために、追い立てられるようにゲームやアニメに没入する。現実に生きるための営みをほぼ切り捨てて、コンテンツを消費するだけの存在になる。

 拓巳の場合はそこまで悲惨ではないけれど、このコースに片足を突っ込んだような状態だ。そうならないためには、どうしたら良いのだろうか。

 辛く苦しい現実を見ようとしない、ということが問題のように思う。そのことが後ろめたさになり、弱点として残り続けるからだ。ダメな自分を知っているのに、それを認めないこと。本当は自分は優れているのだ、と思い込むこと。それは、自分自身を否定することだ。「こんなのは自分じゃない。もっとうまくいきられるはずなんだ」と考えたところで、現実の自分は変わらない。うまくやれる本当の自分はいつまでたっても姿を表さない。それは、自分が自分の価値を認めないということだ。皆でよってたかって、無能だと中傷するなかに、自分が混ざっているようなものだ。そんなことを考えていたら、生きていく力が失われて当然である。

 だからもし、そんな考えにとらわれて、現実から目をそらしているなら、自分をゆるし、受け入れることが必要だと思う。

 自分の肉体、容姿、能力、性格が、いわゆる社会の理想にそぐわないこと。ほとんど必要とされてないと認めること。その上で「しょうがないじゃん」とゆるす。諦めてもよいし、気が向くなら改善の努力をしてもよい。今はダメだけど、いつか良くなるかもしれない。ずっとダメなままだったとしても、まあしょうがない。今以上に他者からの評価が落ちることもない。落ちたとしてどうということもない。そういった寛容さ。ことさらに振りかざす価値よりも、そんなふうに染み出してくるものが良い。

 CHAOS; HEAD NOAH の物語は「現実を書き換えるほどの強力な妄想」の話で、上で言ったような現実を認めることとは逆の答えを見出している。刺激的だったと思うけれど、寄る辺のない妄想の先に幸せがあるとは、僕は思わない。