決められない事と直感と理屈

 目を覚まし体を起こしてみると、カーテンの隙間から雪景色が見えた。この冬では初めてのことだ。外へ出ると、隣の家の垣根に使われている広葉樹が雪をかぶって、しな垂れていた。空気は冷たいが風はなく、雲は晴れて太陽は明るかった。通り過ぎた電車が突風を吹かせて、雪を舞い上げる。珍しく明るい冬だった。

 昔のことを思い出すと、よく迷う子供だったと思う。いつも、レストランでメニューを決められない。「なんでも良い」だの「わからん」だの「さあ?」だのとはぐらかしていた。親が代わりに選んでくれるのを待っていた。お菓子を選ぶときも服を選ぶときも、特に何も考えず、自分で選ばなかったような気がする。当時からゲームの大好きな少年だったが、ゲームショップでさえ、よく迷った。親に車を出してもらって、欲しいものを一時間も決められず、結局手ぶらで帰るということもあった。正月にもらったお年玉は、一円も使わずに親に渡していた。節約のためではなく、買うものが決められなかったからだ。

 昔、森博嗣のエッセイに「服を買うときは値札を見ないで買う」と書いていたのを読んだ。成金の冗談にも取れるが、もちろんそんなことが言いたかったわけではない。自分にとって価値があると判断したら、それを買うべきであって、バーゲンだとかセールだとか、ポイントがどうとか、他人から見て似合うかどうかとか、そんなものを気にする必要はない、と言いたかったのだと思う。値札を見ないのはやりすぎだが、自分が欲しい思うものを、手に入れるのが良い。

 なるほど。そんな風に直感で物事を決めていくのは格好良い。しかし、直感だけに頼っていたら、選択が不安定になる。これだと確信を持って選び取ったものが、今日は色褪せて見える。誤りだったかもしれないという不安と後悔に襲われる。直感とは、力強い言葉のように聞こえるが、実際には脆い。信頼できない。

 そこで理屈を使う。直感に理由を添えてやる。なぜそれを選ぶか、ということを自分に説いて聞かせる。そうすれば選択は安定する。同じ問題が出てきたときに、同じ考え方でものを選ぶことができるからだ。「どうしてそんなものを選んだの?」と変人扱いされたとしても、それにはこういう理由があるからだと跳ね返すことができる。

 直感に理屈を添える。これを繰り返しているうちに、どんな選択に対しても、それを支える理屈を作り上げることができそうだということに気づく。たとえば、夢を追いかけるべきか、サラリーマンになるべきかという選択。夢を追いかければ、たとえ失敗したとしても後悔はないだろう。だから夢を追いかけるのが正しい。そういう理屈がある。一方で、成功するかどうかもわからない世界に飛び込んで散るよりは、安定した収入が得られるサラリーマンになって幸福をつかむほうが良い。そういう理屈もある。さて、どちらが正しいだろうか。

歳を重ねて

 年末の懇親会を終えてからは、家でじっとしていた。去年プラモデルを組み立てたことを思い出す。特別な喜びはなかったが、どこか厳かで徳が高まるような気がした。今年も静かに、何かを組み立てるのも良いかもしれない。膝にかけている毛布を目当てに、うちの老猫がやってきた。普段はベタベタしない猫なのだが、この時ばかりは別らしい。

 二〇十六年で、三十歳になった。ずいぶん長く生きてきたなと感心する。幼稚園や小学校のことは殆ど覚えていないが、それでも二十数年の記憶がある。中学校であったこと。高校であったこと。大学であったこと。大学院であったこと。就職してあったこと。僕は行事には消極的だったので、ドラマチックな思い出は皆無だが、それでもいくらかの楽しい思い出がある。写真は撮らない主義なので、卒業アルバムもぞんざいな扱いである。何一つ残っていないが、切り取って飾っておきたくなるような、美しい時間もあった。もちろんその逆に、辛い思い出もある。

 僕のように、消極的に生きてきた人間でさえ、積み重なった時間がある。テレビやインターネットで暇をつぶしてばかりの両親にも、長い人生の思い出があるのだろう。機会があれば、聞いてみるのも良いかもしれない。どんなに話が合わなく見えたって、年齢という重みは、話題を与えるだろう。

 大病を患って以来、おとなしくなった父を見て、彼の人生はもう、あとは緩やかに死ぬだけなのだろうなと感じる。寝転んでテレビを見て笑うことが日課になっている。何かを練習するとか、勉強するとか、作り上げるとか、日々積み上げるものがない。衰えるばかりで、成長がない。平均寿命を考えれば、あと十数年は生きられるだろうから、盆栽でも何でも、新しいことを始めれば良いのにと思う。

 まるで、生涯成長し続けることが義務みたいな書き方をしてしまった。成長を求めるかどうかなんて、ただの好みの問題だ。成長すること以外にも、きっと生きがいがあるだろう。よく言われるのは、子供や孫の成長を見ること。自分から何かを働きかけるのではなくて、ただ変わっていく姿を愛でる。それを一番の楽しみとする。そういう生き方。自分ではなにもしないというのが、ちょっとずるい気もするが、子を育てきった親の特権として、それくらいは許されるだろう。子供のいない老人は、もっと考えをふくらませて成長していく会社、業界、社会を見つめるのを老後の楽しみにする。そういう手もありそうだ。

感謝しているか?

 紅葉が進み、秋の服では、耐え難いほどになってきた。キーボードを叩く指先が冷たい。暖房はつけていない代わりに、たくさん重ね着していているのだが、それでも足りない部分がある。ついさっき淹れてもらった温かいはずのお茶も、冷たくなっていた。

 Daigo The BeasTV という番組がある。プロゲーマーの梅原大吾が twitch で配信している番組だ。近頃は、これが毎週の楽しみになっている。特に、前回は一風変わっていて面白かった。

 最近活躍し始めたアマチュアゲーマーの「えいた」が、どうやったらプロになれるのか考えるという企画だった。彼のチームメイトは企業のスポンサードを受けて、プロゲーマーの肩書を手にしたが、彼だけは未だフリーのままである。

 怪しげな神父の衣装をまとったウメハラは、えいたに問いかけた。どうすればプロになれると考えているか? 企業がプロに求めているものは何か? えいたは、観客が盛り上がるような魅力的なプレイをすれば、いつかは…と言葉を濁す。ウメハラは首を横に振り、それでは視野が狭すぎる、と切り捨てた。彼は、今の世界ではどんなにゲームが上手くてもプロになるのは困難だと言った。

 ウメハラは言った。野球の世界で 160km の速球を投げればプロへの道は開かれるだろうが、ゲームの世界ではそれはない。業界が整備されていないからだ。じゃあ何があればいいのか。たとえば、イケメンならすぐプロなれる。ゲームがそこそこでも、ジョニー・デップならプロゲーマーになれる。テクニック以外の強みを見つけなければならない。

 それからウメハラとえいたは、プロになれそうな強みをひとつずつ探して挙げていった。学歴、英語力、容姿、若さ、ツイッターのフォロワー数、人脈、トークのうまさなど。ウメハラは、これらは二つの要素にまとめられると言った。

 一つは、イメージ。もう一つは影響力。この両方が高い人物を企業は求めている。学歴や容姿はイメージ、ツイッターのフォロワー数や人脈は、影響力に関わっている。プロゲーマーになりたいなら、イメージが良くなること、影響力が上がることだけをすればよい。特に、プロゲーマーは影響力が大事である。求められるのは、すごいなあと遠目に思わせるだけではなく、他人を行動させるほどの影響力だ。

 そして、そんな影響力を持つには、どんなに学歴が高く、英語ができて、イケメンで、若くて、ツイッターで人気があり、トークがうまかったとしても、ダメだ。それだけでは、むしろ、嫌味なやつになるかもしれない。影響力を持つのに、ただひとつ重要な事がある。それは何か? ウメハラは尋ねるが、えいたは答えられない。

 ウメハラが出した答えは「コミュニティ愛」あるいは「コミュニティに対する感謝」だった。ウメハラが強くそう感じたのは、ある路上シンガーの振る舞いを見てからだという。

 あるときウメハラが、路上で耳にした歌手の声に聞き惚れて、最後まで聞いていた。その後、彼女が CD を売り出したので、並んで購入した。しかし、その時の態度が良くなかった。彼女はウメハラと顔を合わせることさえしなかった。最後まで歌を聞いた数少ない客に対して。

 そんなふうに感謝がなかったら、自分のことばかりで完結していたら、誰もついていこうと思わないだろう。たぶん、プロゲーマーになりたいと言っている人たちに欠けているのはそれだ。

 そんな話を聞いて、僕はすごく驚きうろたえた。お前は自分のことばかりで、人に感謝していないのではないか、そう問われた気になったからだ。

 実際、今勤めている会社に対して、感謝を欠いているように感じられた。会社に対して労働するのは、給料が払われるからだ。求められる以上の仕事をする必要はない。そう考えている。そこに感謝はない。もちろん、悪意があってのことではない。単純で、わかりやすいからそのように解釈していただけだ。

 この日記でさえもそうだ。内向きの何かを発散しているだけだ。自分のことばかりで完結している。周りを見ていない。だから、他人を動かすことができない。誰かに慕われるということがないのだ。そんな自己批判が思い浮かぶ。だが、それを跳ね返す理屈は出てこない。

 何かを改める必要がありそうだ。誰かに向けて感謝をしようとか、ボランティアをしようとか安易なことではなく。プロゲーマになれるような影響力を持ちたいわけじゃない。だが、自分に対する批判を見つけて、それを放っておくのは不安になる。

二十数年越しに将棋を学ぶ

 風邪を引いた。弱った体で俯いて歩いていると、キンモクセイの花が散っていた。見上げると生きた樹があった。爽やかな香りがする。

 少し将棋の話を書く。初心者(僕)の考え方が、どのように変化してきたかということを整理してみたい。駒の動かし方を覚えたのは小学校一年生くらいの頃だ。兄や叔父の相手をさせられるが、一勝もできず、負けて泣いていた。それからさっぱり触ることがなくなって、年に数回、父がしばしば見ているいる NHK の将棋トーナメントを横から見るだけだった。解説を聞きながら、プロの指す手に関心しながらも、何か超越した世界の出来事として認識していて、自分も将棋を指したいとは少しも考えなかった。

 それから会社で、こんな動画(http://www.nicovideo.jp/watch/sm25024123)を教わった。わかりやすく、ためになる良い解説だと感じた。これを機に少し、将棋を指してみたいと思った。今まで知らなかったことを覚えて、かつての弱さを跳ね返すことができそうな予感がしたからだ。

 この動画ではまず「有利になる行動」をはっきりさせている。一つは、相手の駒を取る(もしくは、弱い駒を犠牲にして強い駒を取る)こと。もう一つは、自分の駒を成ること。この2つが有利になる行動だということは、改めて考えてみれば当たり前のことなのだが、それを狙うと良い、ということはルールに書かれていない指針である。将棋は「王を取れば勝ち」という最終目標は明確だが、そこに至るまでの過程は白紙である。この「有利になる行動」が白紙を埋める手がかりになる。

 初めて将棋に触れたときのことを思い浮かべると「とりあえず大きく動ける飛車、角が強い。とにかくそれを前に押し出す」という感覚でゲームを進めていたと思う。この中間目標は、守られていない駒を脅かすことはできるが、それ以上王手に結びつくものではない。ある程度形が進むと、いたずらに飛車を右往左往させるだけで、相手の陣地を崩せなかった。

 飛車や角の利きを広げるというのは、実のところ「有利になる行動」の一つではあるけれど、それ一本では脆い。すぐに達成できる目標だから、次なる目標が必要だった。たとえば、銀を援護に出して、どうにか飛車が「成る」ことを目標にするなら、棒銀を発見できたかもしれない。今そういう発想を持てるのは「自分の駒が成る」ことが有利だと知っているからだ。

 「有利な行動」は何か、という知識をさらに応用すると、攻め方だけではなく、守り方もなんとなくわかるようになる。なぜなら「有利な行動」は「相手にさせてはいけない行動」でもあるからだ。つまり、自分の駒が取られることや、相手の駒が成ることを避けるのが、守りの手である。駒を取られないように、しかし相手の駒を攻めなければならない。

 ここで、プロ棋士の対局動画をいくつか眺めてみた。飛車、桂馬、銀を中心とした右側を攻めに使い、余った金と左陣地を守りに使っていた。なるほどこの形が良いのかと納得した。矢倉とか穴熊の形を覚えた。そういう形があるのは知っていたけれど、さっぱり覚えられなくて不要だと思っていたけれど、なぜこの駒組みなのか、ということを知っていると、不思議と覚えられるようになった。

 実際には、紆余曲折あってこれほどすんなり理解したことではないし、僕自身の棋力はたいしたことがないのだけれど、こんな風に、勝つための発想が、ひとつながりに成長していると考えると面白い。中盤や終盤の考え方はまた違った手がかりが必要だし、訓練を積み、知識を蓄えないと勝ちは遠いけれど、明らかな成長を得た満足感はある。

人生とプラスとマイナス

 三十歳になって、酒を飲んだあと、いま生きている理由や、何を望みながら暮らすだろうということを考えた。何のために生きるのだろう。家族のため。血統のため。会社のため。社会のため。国のため。人類のため。誇りのため。趣味のため。日常の喜びのため。どれもしっくり来るものはない。

 執着のあるものについて考えると、僕はゲームが好きだ。人生の半分くらいの時間をそれに費やしてきた。しかし、ゲームのために生きているとは考えていない。面倒でゲームをしたくないと思うこともある。仮に、ゲームが遊べなくなったとしたら残念だが、絶望するほどでもない。

 直感的には、生きる目的はないように感じる。目的がなくても、生きているだけで、それなりの楽しみがある。大きな苦しみが降り掛かってくることもあるけれど、プラスとマイナスの総量が、ゼロ以下になっていると感じたことはない。実は、そこそこ幸福なのかもしれない。

 そんなことから、話は少し飛んで、プラスとマイナスのことを考えた。

 人は、プラスになる事は進んでやる。マイナスになることは避ける。たとえば、美味しいご飯を食べて満腹になることや、漫画を読んで楽しむこと、これらは誰もが進んでやるプラスの行動である。マイナスの行動とは、たとえば転んで怪我をする、溝に落ちて靴がずぶ濡れになる、といったことである。このような行動を自ら進んでやる人はいない。

 ところが、現実の人間は、ある種のマイナスの行動については頻繁に選択している。たとえば、会社に向かうため満員電車に乗る。暑苦しい、臭い、窮屈でろくなことがない。明らかなマイナス行動だが、それでも多くの人は満員電車に乗り込む。

 それは、将来を予測することができるからだ。電車に乗らなかったなら仕事に出れず、上司から叱られるだろう。信頼を失い、職を失うかもしれない。それは満員電車に乗ることよりも、大きなマイナスである。

 予測することは、将来のプラスを取るのにも役立つ。たとえば、魚釣りは池にいる全ての魚を捕まえない。なぜなら、生き残った魚が繁殖して、次に来たときも魚が取れると予測しているからだ。もし、全部の魚を捕まえてしまったら、一時的に大きなプラスが得られる代わりに、将来釣れる量はゼロになる。

 予測は外れることもある。繁殖できるように残しておいた魚が、他の漁師に根こそぎ釣り上げられてしまうかもしれないし、病気にかかって全滅してしまうかもしれない。

 それさえも、経験すれば予測できるようになる。他人が荒らさないように予め柵を立てることができる。魚が病気になってないか予防の検査することができる。コストは大きくなっていくが、未来のマイナスに備えて対策を立てられる。どれくらいコストを払うかは、マイナスが起こる可能性の高さ、量によって変わっていくだろう。

 マイナスを減らし、プラスを増やすには、予測すること、比較することが大切なのだろう。どの選択肢が、どの程度のプラスを、どの程度の確率で生み出すのか。そこから一番良い物を選ぶ。外れても次の手を打つ。こんなことを考えるのは、最近カードゲームをしているせいか。

どうぶつの国

 何度も寝返りを打った。深夜四時半をすぎてもまだ、眠気が来る気配はない。仕事をしている日中はただひたすら眠いというのに。感覚の狂った身体にうんざりする。もう朝だということにして、身体を起こすことにした。真っ暗な中に、コオロギ達の耳触りの良い鳴き声が聞こえている。布団に入る前から聞こえていたから、四時間以上も鳴き続けていることになる。人間だったら、もう話し疲れてぐったりしている頃だ。彼らが鳴いているのはコミュニケーションのためではないのだろうか。

 連休の間に、どうぶつの国という漫画を読んだ。動物と話すことのできる主人公が、人のいない弱肉強食の世界で生きていく物語だ。この話の面白いところは色々あるけれど、弱いものが強いものに殺される弱肉強食の理不尽さ、そして、それに対する怒りが強烈な印象として残っている。重いテーマを抱えながら、所々ギャグも交えられていて、なんというか雷句誠らしい感じがした。楽しく読みながら心動かされる名作だったと思う。

 ところで、冷静になって考えてみると、どうぶつの国にいる動物たちは、人間に近い感情を持ちすぎているのではないかと思えた。もちろん、動物にも感情はある。うちの猫だって、嬉しいとか悲しいとか単純な感情を持っているのはわかる。けれど、たとえば、子供や仲間を思いやる気持ち。理不尽に訪れた死に対する怒り。守れなかったことへの後悔。そういった感情は、人間以外に見られない感情ではないだろうか。言葉についてもそうだ。犬の鳴き声には何種類か異なる意味を持つものがあるというけれど、主語と述語を使って文を組み立てることはできないだろう。

 彼らが人間に近い生き物であることは、その容姿にも当てはまる。作中で主人公の家族となるタヌキたちは、着ぐるみを着た人のような姿で描かれている。ヤマネコやオオカミ等その他の動物の姿は、人としては描かれていないが、タヌキだけは明らかに様子が違っている。主人公と深い関わりがあるキャラクターは、感情移入させるために動物の姿にしないほうが良い、という作者の意図があったのかもしれない。

 上のような疑心を抱くうちにどうぶつの国に対する見方が少々変わってきた。すべての動物が仲良く暮らす平等の世界を築く物語。理想論を突き進む物語だと思っていた。しかし、全ての動物が人間寄りに脚色されているなら、人間と人間に近いものたちが仲良く暮らすようになっただけで、真の意味で動物と人とが平等の世界を築いたとは言えないのではないか。そんなふうに思った。物語として見応えをもたせ、感動的なドラマを生むために、虚構をかぶせている。作り物だ。

 そんな当たり前のことを今更指摘しているのは、それだけ没入感があったからかもしれない。実際に読んでいるときは、まやかしだとかこれっぽっちも考えていなかった。絵の迫力に飲まれて、ただただ主人公たちの信頼関係や、熱い戦いに心を揺さぶられていた。十分楽しんでいた。だから、その評価を貶めることはない。ただ、動物と人の間には、感情や言葉で埋めることがままならない差があるはずだ。理想の世界にひたるだけではなく、あるがままの世界も知っていきたいと思う。ナショナルジオグラフィックでも、見てみようか。

時速二キロメートルの散歩

先日、ポケモンGOがリリースされた。普段、ゲームの話題がない社内でも、半数以上の人が遊んでいるらしい。僕もインストールしてみたが肌に合わず、レベル四で足踏みしている。外へあちこち出歩く習慣がないからだ。その上、自宅の半径一キロ程度にはポケストップが一切なく、ポケモンが出る気配はない。

それにしても、気が遠くなるような熱さだ。蚊の侵入を防ぐため、窓は一切開けていない。しかも、この部屋には冷房がない。これは外に出たほうがましだ。そう考え、サンダルを履いて外に出た。珍しいことだ。運動や気晴らしが目的ではない。少し歩こうとして立ち止まる。通勤と違って、荷物もない。目的もない。遠出をする靴でもない。セミが一斉に鳴いている中で、どこで鳴いているのか、なぜ鳴いているのか、この暑さ、風、空の色など、夏を初めて経験する宇宙人のような気分になった。だから、目に止まったことをいつもより多く書き留めることにした。

すぐ側の家に目を向ける。枝を丸刈りにされすっかり生気を失った庭木。その隙間にはびこるクモの巣。セミも寄り付かない。どっしりした庭石が隠れてしまうほど雑草は伸びるままになっている。窓もカーテンも締め切られて人のいる気配はない。その場を離れて、畑と田んぼに囲まれた、いつもの道へ顔を出す。風にそよぐイネ。迷い込んだ小さなチョウ。脇にはエノコログサ。白い花をつけるヒロハホウキギク、紫色の花をつけるアレチハナガサがそれぞれひとかたまり。

柵越しに見えるカラフルな保育園の遊具。誰もいない。セミが遠くで鳴いている。少しスズメのさえずり。遠ざかるサイレン。左手でバッタが跳ねる。朽ちかけたヨモギ。ニラ科と思われる植物。歪んだガードレール。まだ緑色のススキ。人の背ほども伸びたセイタカアワダチソウ。その他、よくわからない植物の塊。ここに住み着いた時から変わっていない。おそらく二十年近く人の手が入っていない。おぞましいほどの密度。圧力。すぐ側の電柱を支える電線にまで何かのツタが絡む。

ふいに視界に入る黄色、あるいはオレンジ色のトンボ。ウスバキトンボだろうか。目が悪くて見えないが、少し仲間を連れている。水田。優しく水が流れる音。木の板で水の流れる量を調整している。どこからどこへ流れているのかわからないが、出口はここだとわかる。道を挟んで反対側に、雑草と野菜の混じる惨めな畑。ペットボトルを加工した手作りの風車。さらにその奥に国道とガソリンスタンド。背景には深緑の山。鉄塔がポツリポツリと並び、少し隠れて反対側の斜面まで続いている。

トンボが集まってくる。ふらふらとしてすぐに散る。彼らの羽が太陽の光を反射する角度が一瞬だけある。踏切の遮断機のリズム。大型車通行禁止の標識。涼しい風が抜けていく。イネがそよぐ音。用水路。ジャンボタニシの赤い卵塊。ときおり、不意に水が跳ねて波紋が立つ。目を凝らすとオタマジャクシの姿。あちこちでゆっくりと、親指ほども大きさがあるジャンボタニシが動いているのに気づく。ユスリカの蚊柱。木の水門を渡る蟻の行列。虫に食われた痕跡のある雑草。葉に痣のような斑点。その中に、場違いに大きく派手な黄色い花。ユリの仲間だろうか。スズメより一回り大きい、白黒の小鳥。おそらくシジュウカラと思われるもの。眺める間もなくホップしながら飛んで行った。アスファルトで干からびた哀れなミミズ。

すれ違う人の手に日傘。頭に麦わら帽子。また遮断機のランプが点滅した。何かのイベント用にペイントされた電車が走る。空の真上から重い音。全てを無視して縦断する飛行機。どこからかカラスの鳴き声。十七時。トンボが増えている。水田の上。二十か三十か、羽のきらめきと不安定な飛び方でそれとわかる。もぞもぞ動いているジャンボタニシが思いの外多い。すぐ側を見ただけで五、六匹はいる。

しばらく水田とトンボを眺めてから、同じ道を帰った。わずか二キロ程度の道のりで、一時間近くかかった。散歩と呼ぶにはあまりにも遅すぎる。少し汗が引くのを待って、名前の知らない雑草や動物の名前を調べた。見つかったもののほとんどが帰化植物で、良いものとは見られていないことがわかった。十年数の時を経て、ようやく名前を知ることができた。驚くほど、物事を知らない自分を知る。社会に疎いどころか、自然にも疎い。

名前以上にもっと、その生き物は情報を持っている。今日すれ違ったトンボが、どこからどこへいくのか。手触りはどうか。羽の模様はどうか。幼虫はどうか。何を食べるのか。夜どうしているか。知らない。植物も同じだ。ただそういうものがある、ということを知っているだけだ。どうやって増えるのか。どのように成長するのか。葉の形はどうなっているか。知らない。