再利用することから

 大小の雨が重なって休日に出かける予定が三度流れた。挙句に二度も風邪に捕まった。マスクを付けて迎えを待っている間に、公園の樹を見つめた。半分以上雨に落とされうつむいた葉は、赤いすべり台、青いブランコ、黄色い鉄棒などカラフルな遊具に馴染む黄葉混じりになっている。人影はなかった。

 プログラミングで最も重要なことの一つは「再利用する」ということだ。解決したい課題が同じならば、前使ったプログラムをもう一度利用する。課題に少しの違いが有るなら、パラメータ設定やカスタマイズ可能なプログラムに書き換えて、再利用する。大きな課題を解決するシステムを作るときでもそれは変わらない。ライブラリやフレームワークといった、すでに誰かが作りうまく動作した実績のあるプログラムを利用する。理想的なプログラミングの形は、一行も書かないことだ。

 この発想を広げて、繰り返し行われる仕事を、なんでも再利用することを考えてみるとどうだろうか。たとえば、学校の授業。高校の先生はクラスをあちこち移動しながら、同じ授業を行う。同じ内容を黒板に書き、同じ説明を声に出して読む。たまに出てくる面白いエピソードだって、クラスが違うなら使いまわしても問題ないだろう。この仕事を再利用できないだろうか。

 どうせ再利用するなら、教えるのが上手で聞いていて面白い先生の授業が良い。いくら流しても劣化しないし、何年たってもそう多きな変化は生じないだろうから、やがて、数学の授業をする先生は世界にただ一人、伝説的な録画が残るだけになるかもしれない。ドラマチックで面白く、わかりやすく洗練され、応用の可能性を示唆するもの。それを越えようとする教員たちを集めて、大企業が映画みたいに何億も予算をかけて収録する。それを、世界中の高校生がヘッドマウントディスプレイを付けて、ノートを取りながら見る。そのうち「この先生が面白い」みたいなレビューがあふれかえる。富裕層だけの高価な「生授業」とか、政府非公認の「闇授業」なんてのも生まれるかもしれない。授業の極端な画一化に反対する一派も現れるだろう。生徒に選択肢を与えて分岐する動画が生まれるかもしれない。あまり過激なのは年齢制限が付くかもしれない。授業というものがエンターテイメントになる。

 情報化が進む世界は、今なぜそうなっていないのだろう。学校の個性がなくなるから、習慣上できないから、人の温かみがないから、学力の違いが有るから。まあ、雑な理由を上げてもしかたがない。いまここでは、無責任な空想のほうが面白い。

何のために勉強するの

 シダの隙間に濡れたヒガンバナを見かけた。花弁と花心はいずれも血のように深い紅色で、葉は一枚もない。この攻撃性を感じさせる奇妙な花は、思いの外生命力が強いのかもしれない。植えた覚えもないのに庭を侵略し始めている。

 最近、ゲームをするのを少し控えて、勉強するようにした。ふと、子どものような疑問が浮かぶ。勉強するのは何のためだろうか。まず思いつくのは、勉強したほうが、仕事を探す上で有利になるということだ。

 勉強しなかった場合は、良い仕事を見つけることが難しい。なぜかというと「自分にできる仕事」が「誰にでもできる仕事」になってしまうからだ。誰にでもできる仕事は、働き手がたくさんいる。働き手よりも仕事のほうが少ない。働き手は、少ない席に座るために、多少の悪い条件には目をつぶらなければならない。

 勉強した場合は「自分にできる仕事」が「勉強した人だけができる仕事」になる。勉強した人だけができる仕事は、働き手が限られている。働き手よりも仕事のほうが多い。働き手は、数ある仕事の中から、好きなように選ぶことができる。

 ところが実際には、勉強といっても、実際の仕事とは直結しない勉強も多い。たとえば、中学校の数学で習う台形の公式を、そのまま使う仕事があるだろうか。おそらく、ほとんどない。子どもがなぜ勉強をするの? と聞きたがるのも、もっともな話だ。大人はたぶん、こんなふうに答える。役に立たないと思われていることは、基礎である。それらを組み合わせ応用していくことで、現実的な問題や社会で求められる能力につながっていく、だから役に立たないことも学ぶべきだ。

 きっとそれは正しい。けれど、ここではそれとは別の言い方をしよう。勉強にはある種の気持ちよさがある。できなかったことが、できるようになる、という快感がそれだ。ゲームで例えるとわかりやすいかもしれない。歯が立たなかったボスを倒せるようになる。失敗してばかりだったステージがクリアできるようになる。思い当たることがないだろうか。それがわかったなら、役に立つか、立たないかなんて、どうでもいいことに気づくだろう。楽しいからやる。気持ち良いからやる。それだけでも事足りる。ごはんを食べるのも、誰かとおしゃべりして笑うのも、必要があってそうしているわけではない。役に立つからそうしているわけではない。勉強もそれと同じで、楽しく生きて行くための選択肢の一つだ。しかも、楽しいだけじゃなく将来有利に働く。こんな話をしたら、勉強したくなってくるんじゃないだろうか。いや、そんなことはないか。

かっこよくなりたいと思って生きている

 スズムシの鳴き声。鳴き声という言葉でしか形容できないのが悔やまれるほど繊細な音。全力で叫ぶセミとは対照的だ。伸びた雑草が足のすねに触れる。白い繊維質に包まれた、珍しい格好の花が咲いているのを見つけた。ほつれかけた造花のような姿をしている。調べたところでは、カラスウリの仲間のようだ。秋には実をつけるようなので、また様子を見てみよう。

 しばしば、人はどこに向かっているのか、何になりたいのか、という話を考えさせられる。僕はずっと、かっこよくなりたいと思って生きている。ここで言う「かっこよさ」とは、必ずしも容姿のことを言わない。信念であるとか。思想であるとか。見えないものを含む。

 たとえば将棋の羽生名人は、寝癖を気にしないらしく対局中も髪がはねたままになっていることも多い。この頃は老けてきて、ずいぶん白髪も増えている。けれども、将棋が強いというのはそれだけでかっこいい。攻防を兼ねた妙手。自玉を投げ捨てる紙一重の戦い。そういうものを生み出す知性を損ねるものはない。

 漫画で言えば「うしおととら」の主人公、蒼月潮はとてつもなくまっすぐだ。だれかがいじめられていたら、まっさきに助ける。ぼろくそに傷つきながら、裏切られても仲間には手を出さない。好きな娘のために溶岩に突っ込んでいく。自分にふりかかる理不尽よりも他人のために怒りの声をあげることができる。まっすぐであることは間違いなく一つのかっこよさだろう。

 「金色のガッシュ」では、キャンチョメとフォルゴレの二人組が気に入っていた。フォルゴレは「チチをもげ」という馬鹿みたいな歌を真面目にうたえるほどの道化でいながら、誰にも負けない不屈の心を持っていた。キャンチョメはどうしようもないほど臆病で貧弱だった。それでも、その臆病に引きずられながらも仲間や友人のために戦うことができる勇気を持っていた。馬鹿なところがあっても、臆病であっても、かっこよくなれるのだと教えられる。

 漫画やゲームの世界を眺めるなら、書ききれないほどの「かっこいい」を挙げることができるだろう。けれど、現実の中にもさりげない気遣いやふるまいの中にそれは潜んでいる。風で倒れていた未知らぬ自転車を、無言で引き起こしていた柔道部の彼。人の欠点を自分の悩み事のように話し、気づかせようとするクラス委員。すべてがそうだとは言えないが、学校の先生や父親もまた、そういう面を持っていた。

 ここに書いてきた「かっこよさ」というのは言い換えると美徳に近いかもしれない。けれど、美徳というには普遍性に欠ける。何をかっこいいと思うかは僕だけしか知らない。

ワークライフバランス

 梅雨の解けない鬱陶しい初夏にも、蛙と鈴虫の鳴く涼やかな夜がある。しかしそれも嵐がやってきて、一瞬で終わってしまった。昼まで寝ているつもりが、暑さにうなされて目が覚めた。偶然通りがかった子供神輿のかけごえが聞こえる。可哀想にと思うのは、不当な決めつけかもしれない。冷たい麦茶を一杯飲んで、扇風機の電源を入れた。また眠くなる。うとうとしていたが、今度は自分の動悸で目覚めた。こんなに嫌なまどろみは久しぶりかもしれない。

 いま勤めている会社では、数ヶ月に一度、社員が集まって一時間ほどのワークショップをする。人生の満足度や、それを満たすためにやりたいこと、十年後の自分について等をメモする。その後、五人のチームをつくり、その内容を共有する。この活動をする理由はよく覚えていないが「良い仕事を続けていくには人生を楽しむことが必要だから」ということだったと思う。グループを作るのは、普段会話しないメンバーと接する時間を増やして、連帯感を高めようという狙いがあるのだろう。何度か繰り返してきて、いくつか思う所があったので、ここにまとめておく。

 まず、人生の満足度を測るために、ライフバランスホイールと呼ばれる図が使われた。まず、円を六分割してできた扇をそれぞれ仕事、家族、友人、健康、娯楽、精神という六つの観点に割り当てる。そして、六つの観点から見て、どの程度人生に満足しているかに応じて扇の大きさを決める。すると、総合的な人生の満足度、そして満足度の偏りがわかる。

 だが、実際に作業してみたところでは、このやり方は不確かだと感じた。たとえば、健康の観点で考えてみる。僕は腰を痛めたり、寝不足だったりして、決して健康ではない。理想から外れているので不満足だと言える。ただ、少し考え方を変えると運動していないわりに年相応の体重を保っているし、健康診断で大きな問題が見つかったことはない。こうしてみると、まあ満足だとも言える。そういう揺れがある。満足は考え方によって引き出すことができるので、どうにでもなってしまう。

 疑問を感じながらもワークショップは続く。ライフバランスホイールを参考にして、満たされない部分を埋めるような「やりたいこと」を探して、それを書き並べる。優先度をつける。最後に、その中から今後挑戦することを一つ選んでグループに発表する。この体験で気づいたのは「やりたいこと」を選ぶのは難しくないが、発表のしやすさは異なるということだ。

 誰が聞いても共感できることは発表しやすい。たとえば「健康のため体脂肪率を減らしたい」や「自分の家を持ちたい」といった話はありふれていて誰でも共感でき、発表しやすい。また、共感はできないにせよ「日本社会に影響を与えるような良い仕事をしたい」というような理想論は、恥じる所が無いので発表しやすいだろう。

 一方で僕のやりたいことは非常に言いづらかった。「小説を書きたい」というそれだけなのだが、一拍置いて決心しなければ発表できなかった。恥じる理由を一言で言うなら、幼稚に見られるだろうと思ったからだ。もっと具体的に言えば、オタクが自身の欲望を投影した物語に閉じこもろうとしている、と見られるのではないかと恐怖したからだ。いっそ伏せておけばいいのだが、このワークショップを何度も繰り返している中で、やりたいことをいつも秘するというのは、それはそれで居たたまれない気持ちになる。そのような葛藤の先に「小説を書きたい」ということを発表したが、特段何の反応もなく終わった。蔑まれるよりは断然ましなのだが、拍子抜けだった。

 発表しやすさの格差に不公平を感じる。たとえば同性愛者が本当に「やりたいこと」を公にするときは、これよりももっと苦しい葛藤があるだろう。共感されず、差別される恐れ。それらを避けて、二番目か三番目にある当たり障りのない「やりたいことを」引っ張り出すのも手だ。ただ、心に背いたまま満たされるもので、満足できるかどうか疑問は残る。果たしてどれくらいの人が、後ろめたさのない時間を過ごせているのだろう。

 上のようなことを考える暇もなくワークショップは終わった。人生の満足とは何か、やりたいことは何かを探究することは興味深いことだ。そういう意味で、このイベントの理念は納得できる。とはいえ、ゴールに近づいている気がしない。ライフバランスホイールや「やりたいことリスト」のような道具はあるにしても、それを使って前に進む力がない。参加者は誰もが悩める人だ。一時間では込み入った話はできない。そもそも、このテーマは一企業が受け止めるには重すぎる。参加している社員も、特別な何かを期待しているわけではない。「よかったね」あるいは「残念だね」と感想を述べることは出来ても、それ以上先へ踏み込むには繊細すぎる。そんな、もやがかかったような時間は、どこにも到着せず終わる。

動く人になりたかった頃の話

 深夜、蒸し暑さに目が覚めて、ずっと閉めっぱなしだった窓を開けた。公園の街灯が黄色い光を放っている。虫の声はまだ聞こえない。草木の葉ずれの音が聞こえてくる。ふと家の樹に目が止まった。こいつは、こんなに大きかっただろうか。幹は腕の太さほどしかないのに、二階建ての家と同じくらいの背丈になっている。

 大学最後の年、それから社会人になってからの数年は、幸運なことにいろいろな誘いがあった。だから、その波に乗って、ボルダリングとか、バーベキューとか、合コンとか、モンハンオフ会とか、技術者の勉強会とか、自動車の免許を取るとか、いろいろと挑戦してみた。彼女を作って、いわゆるリア充になれるかもしれない、とそんなことを考えていた。毎週予定が入っていたときもあったような気がする。

 結果を言うと、やはりというべきか、リア充にはなれなかった。もともとゲームばかりしていて引きこもっていたので、お洒落な店や知らない場所に行くと体が震えて、いやな汗が止まらなかった。女性と話が合うこともなかった。イベントが終わると一人、劣等感で悶えた。とはいえ、悪いことばかりでもなかった。会社の人とはずいぶん話ができるようになったし、純粋に面白いと思えることも多かった。誘いかけてくれた人が、うまくことを運んでくれたからだろう。

 人には、自分からどんどん動いて周りを引っ張っていける人と、待っていて引っ張られるだけの人がいる。動く人は相手を選ばす誰でも誘うことができるのに、待つ人は動く人がいないとなにもできない。それが、劣っていることのように思えた。待つ側である自分を恥ずかしく感じていた。変わらなきゃいけないと思って必死だった。

 ところが今は、そういうことが全く気にならなくなってきた。その理由はまだ、よくわからない。時間が過ぎて志がしぼんだのだろうか。それとも諦観を得たのだろうか。残念ながら時間がたりないので、今日はここまで。

自分で言葉を薄めてしまうこと

 毎日会社へ行く時に、近所の庭木に咲いているアセビの花を眺めている。小さな壺型の白い花を鈴なりに垂らしていて、ひと目でそれと分かるのに何年も気づいていなかった。桜のように華々しく咲いて散るものではないからだろう。よく調べてみると、アセビではなくてドウダンツツジというよく似た花だった。あまり区別する必要を感じなかったので、アセビと呼ぶことに決めた。

 後輩を叱って「こうしたほうが良いと思う」とアドバイスした事がある。あまり落胆させないように何か慰める言葉を探したが、良い言葉が思いつかなかった。たとえば「ドンマイ」とか「気にするな」というのは違う気がする。気にして欲しいから指摘した。気にされなかったら困る。「たいしたことじゃないけど」「些細なことだけど」とかいうのも違う。問題を小さくしたいわけじゃない。「人によって考えが違うから」とかは自分のアドバイスを自分で否定しているので、最初の意図に反する。結局何も言えないまま終わった。慰めるのではなくて励ます言葉が正解だったのかもしれない。「がんばれ」というだけでよかったのかもしれない。

 そんな風に僕は、何かを言おうとするとき、それは正しいのだろうかと自問する。反論を予測できたり、自分の主張にミスや例外を見つけたりできるからだ。しかし、マイナス面もある。何かと考える時間をとるので、動きが鈍くなる。判断に時間を要する。加えて、絶対に正しいという確証が得られるまで、主張をぼかすようになる。結果、説得力が弱まる。しょっちゅう「勘違いかもしれないんですけど」で話始めたり、話を終えるときに「まあ、いつもそうとは限らないですけどね」とか「個人的にはそう思いました」などという言葉がつく。そういうのが口癖になっていると、格好悪いなあと、ふと気づいた。

 会社で一番下っ端のときは、いくらでも自分を卑下してよかった。むしろ、先輩や上司の顔を立てるのには都合が良かった。しかし今は、五年も同じ会社に勤めて、自分より年下の後輩たちが何人も入社してきている。その中で、自信の無さそうな発言、保険をかけてばかりの発言をしていたら、説得力にかける。三十歳も過ぎたし、そろそろ、自分で言葉を薄めるようなことはやめにしよう。

表現不能なものを褒める

 椿の花が落ちていた。花びらになって散るわけではなく、まるで切り取ったように、根本からぽとりと落ちていた。調べてみると、それが自然の振る舞いだということがわかった。気がつけば、梅の花も散っている。部屋着を一枚減らした。灯油を使い切るために、ストーブをつけっぱなしにしている。

 ゲームがはかどらないので、いつもより早く動いた。風呂に入って、髪を乾かして、歯を磨いた。日付が変わるより前に、これで一日が終わりだという気持ちになった。それでも、眠くはないので、あてもなくヘッドホンをつける。何かと戦っている歌を聞いて、寂しくなる歌を聞いて、明るくなる歌を聞いた。何番目かに掘り起こした曲の中に「たった1つの想い」という歌があった。こんな歌詞で始まる。

たった1つの想い貫く 難しさの中で僕は
守り抜いてみせたいのさ かけがえのないものの為に 果たしたい 約束

 こんな詩なのに、声は優しげだ。訴えるわけでもなく、叫ぶわけでもない。困難に対する無力感と諦め。それでも対峙するという決意。それに慣れてしまった虚しさ。擦り切れた中でも屈しないしたたかさ。そんな風に、語られてもいないものを連想させられた。

 いくらか書き並べてみて、やはり音楽はわからないと思った。気持ちいいとか格好良いとか、感想を言うことはできるけれど、そのように感じさせた音を表現する単語がない。演奏と歌が流れている中で、何が起こっているのかわからない。料理と同じように。旨いと言うことはできても、そこで何が起こっているのかわからない。絵を見たときもそうだ。

 わからないのに、良いものだと語りたい。そういう時に人は、物語を与える。いつ、どこで、どんなとき聞いたか。どのようにして作られたか。たとえば、無農薬で育てた野菜を使った料理だとか。失恋したときに聞いた曲とか。物語は特別な意味を与える。歌の良し悪しや、料理の旨さとは関係がないのに。

 こんなに不完全な情報のなかで、自分にあうものを見つけられるのは、奇跡的なことかもしれない。