成長とは何か?

Tさんいわく、「やばい」という言葉がじつに広い意味で使われている。このように、現代では言葉の意味を明確に捉えて発言しなくても、おおまかに伝われば良い、という風潮がある。

物事を考えることが昔の人と比べて下手になっている気がするのだ。ある1つの適当な言葉に着目して、そのものが指す概念をより明確に理解すれば、もう少し物事をうまく考えられるのではないか。さて練習をしてみよう。

このような経緯によって、僕を交えた3人で下のような対話が行われた。
誰が発言したか整理する手間を惜しんでいるので読みづらいかもしれない。
僕の記憶力はかなり曖昧であるので、漏れている情報もいくらかあるだろう。

さしあたりの問題として「成長」の定義について話をすることになった。
なぜこのキーワードを選んだのか経緯は忘れた。(早速漏れている情報)

まずはわかりやすいところに、肉体的な成長があるだろう。体重とか身長とか筋力とかの変化だ。これははっきりしているので、あまり詳しく話をするまでもない。そうじゃない成長について考えることにしよう。

「しようと思っているけど、できなかったことが、できるようになること」ではないか。たとえば、ダイエットしようといつも言っているけどできない人が、何かのきっかけでできるようになった。これは成長じゃないだろうか。

いや、そうとは限らない。その人が考えていたダイエットが、運動方法によるものだったとしよう。数年がたち、新しくより簡単な方法、たとえば食事制限によるダイエットが発見されたとしよう。その時、ダイエットをするということ自体が簡単になっただけであって、その人自身の考え方や技術向上はない。
それは成長してないのと同じじゃないのか。

ゲームをクリアできるようになることは成長だろうか。それは成長のように思える。失敗したり試行錯誤していく中で、できなかったこと、クリアできなかったステージがクリアできるような手さばきが身につくことは成長ではないか。

しかし必ずしもそうではなく、経験が重要なのではないかと思っている。たとえばマリオブラザーズ3では、笛アイテムがある。これは、いくつかのステージをスキップすることができるアイテムだ。これを使ってラストステージまで到達することは成長と言えない。なぜなら、そこには試行錯誤がなく、繰り返しによって裏付けられたもの、経験がないからだ。

なるほど確かに、攻略本なりなんなりの情報源から笛の取り方を知って、実践するのは簡単かもしれない。しかし、そこから何かしらの発見があれば、それは成長といえるのではないか。たとえば、画面外を通ることができる場合がある、という発見。あるいは隠されたアイテムが存在することがある、という発見。行き場のないときに高いところへ行ってみれば、通路があるかもしれない、という発見。このような、ゲームをプレイする上で、よくある隠された規則性を見出した場合、それは成長ではないか。

実生活には何も役に立たないが、それを成長と呼べるのか。それは、実生活には役に立たないという前提が間違っている。見えないところにものが隠されている、というレベルまで抽象化すれば現実に適用可能な経験則となる。だから、決して無駄とか現実に役に立たないとは限らない。

逆に発見がなければ、つまり、たまたまうまく行ったり、失敗したりを繰り返しているだけでは、成長とは呼べないのではないか。スラムダンクの「まるで成長していない」とはまさにこれ。博打で破産するような人か。でもHUNTER x HUNTERのネテロ会長はただひたすら正拳突きしていた期間で、まるで成長していない時期があったのではないか。ある時、急に成長したのじゃないか。


たしかに、マクロの成長とミクロの成長はあるでしょう。積み上げていったものが、きっかけとなってある時急激に成長する。そのケースはあるだろうがやはり、全く成長していない、というのも別にあるだろう。発見したということを認識すること。自分が成長したという認識を持つことも成長に関わっている。

コンピュータと人の関係もそれに似ている。コンピュータは一瞬でポケモンを全種類記憶することができ、いつでも取り出すことができる。しかし、そこには何の発見もない。ただデータベースを持っているだけだ。

一方、人間がポケモンを全種類記憶する時、その人は何らかの反復的な練習を行い、
意識的に、あるいは無意識的にポケモンどうしの関連性を理解して、名前を記憶するはずだ。たとえば、進化系統順に覚えるだとかいう戦略を編み出すこともあるだろうし、
明確な戦略として発見できなくとも、進化形は似た名前を持っているから暗記に役立つであろうということは、経験的に理解できるだろう。たとえば水タイプだけ先に覚えてしまうとか、そういう方法論を得ることができるわけだ。加えて、暗記するのには、絵を描いて覚えると良いとか、そういう一般的なレベルまで抽象化した暗記の手法を得るかもしれない。あるいは知っていた方法の実験の場となる。


とにかく、そのようにコンピュータが行なっていることは成長とは言えず、人が行っていることには、何らかの発見や経験の蓄積があって、それを成長と呼ぶのではないか。

スターバックスの店員が、僕の挙動を見て、店に慣れてない人だということを推察して、カップサイズを実際に見せながら説明してくれた。僕は説明してくれとは一言も言ってないのだが、店員が客の挙動を観察して対応を変えていることに少し感心した。
ここで行われていることは、店員側の観点の1つを知ったということだ。これは、1つの成長であるかもしれない。

観点を知っただけであって、自分がそのような観点を取りたいとは思っていないが、それは成長と関係しているか。

たとえばスターバックスの店員の動きを見て感心したわけだが、そのようになりたいとは必ずしも思わなかった。観点を知って、自分の中に取り込むことがある。このようなときは、大きな変化が自分の中で起こっている。逆に、どうでもいい…とまでは言わないが、あまり自分に変化を与えない観点を知ることもある。たとえば、ひどく自分勝手な人がいて、その人と接することで、打算的で自分の利益を追求する、という観点を得たとしよう。多くの人は、このような方針を採用することはなく、むしろ嫌悪するはずだ。

いや、反面教師としてそれは、やはり影響を与えているから、大きな変化、成長が起こっているといえなくもない。

いくらかの対話は、まだ続きそうにも思えたが、これを収束させるのは難しいように思えたので、僕は早々に降参してしまった。そのうちにまた考えが再開されるかもしれないが、そうでもないかもしれない。ともあれ、そのまま忘れ去ってしまうには惜しいように思えたので、まとまらない文章ながら、ここに残しておくことにする。