僕はこれから、選択肢を網羅するのはやめようと思った

善人シボウデス」を遊んだ。けっこう面白かったが、あっけなかった。

振り返ってみれば「たった2つの選択肢しかないというのに、考慮すべきことが無数にある」ということが面白かったのだと思う。ゲームルールは長いので省略するが、おおまかに言ってしまえば、「相手と協力する」か「相手を裏切る」のどちらかを繰り返すだけのゲームだ。それなのに、悩んでしまう。

相手を殺してしまうかもしれない。あるいは、殺されるかもしれない。そういう不安がある。信頼に足る相手は誰かを観察する。誰も死なせないようにゲームを終わらせるにはどうしたら良いか思案する。そうして参加者たちの人間関係を探る。

最初の一回はうまくいかない。死なせてしまう。自身も倒れる。それは良い。まあ許せる。選択を誤ったということだろう。セーブとロードがあるゲームだから、過去に遡って自分が選ばなかった選択肢を選ぶのはたやすい。

選びなおしているうちに、自分が何も考えてないことに気づく。他に選択肢がないから、考える必要などないのだ。ただすべての組み合わせを試しているだけなのだ。僕は思わずため息を付いた。なんという退屈さだろう。そして振り返る。動悸を抑えながら選んだ最初の一回は、なんと面白かったことだろう。以降の選択には、それがない。これがあっけなさの正体だ。

結局ぼくは、一週間以上かけて、ほとんどすべての選択肢を網羅し、最もマシな結末を眺めることができたわけだが、その時抱いた感情は達成感よりも徒労感が大きかった。

初めてやることと、すでに体験したことを再びやるのとでは、新鮮味がまるで違う。それは当然のことだ。それなのに、どうしてこれほどつまらないと感じたのだろう。

1つには「人物が変わっただけで物語の展開は変わらない」選択肢があったことだ。いかにも作為的で、げんなりする。もう1つは読者に伏せてある「謎」が大量にあったことだ。単純にぼくの記憶力と頭脳ではついていけなかった。よく覚えていないことについて、解説されるのは退屈だ。謎というのは多ければいいというものでもないようである。

2、3の選択肢を何度も選ばせるゲームはどれも、似たような側面を持っているだろう。もし、2つ目、3つ目のルートが極めて退屈なら、1つ目の感動が消えないうちに別のことをするほうが懸命なようだ。