ハッピーエンドにならない理由について

 8月はあっという間に過ぎていった気がする。通勤途中に見かけるひまわりが、長雨のせいで花を落としてしなだれていた。毎日見かけるから、変化が目につくのだろう。葉が黒ずんで、さびれていく様が、何か物事の終わりを示しているように見えた。

 終わりといえば、月光条例の最終巻を読んだ。物語の大詰めは皆素直になって激しくぶつかってて面白かったと思う。月光条例という物語は、悲しい物語がキライな藤田和日郎(作者)が、その結末に一言もの申す、という動機で始まったらしい。僕はあまり真面目な読者ではなかったので、作者の最初の動機がどういうところに着地したのかはわからなかった。なので、改めて「なんで物語をハッピーエンドにしないのか」について考えてみた。だいたい3つの理由があると思う。

 一つ目の理由としては「ハッピーじゃないほうがリアルだから」というのがあると思う。物語の背景からして、ハッピーになりっこない、という理屈。エイリアンとかバイオハザードとかで全員助かったらヘンだし、迫力がなくなってしまう。そういう死人が出る話じゃなくたって、うまく行き過ぎる世界はヘンだ。何かの犠牲がないと釣り合わない。多少ハッピーじゃないほうが説得力があるだろう。

 二つ目の理由は「そのほうが心を揺さぶる話になるから」というのがあると思う。これに当てはまるのは、最終兵器彼女とかそうなんじゃないだろうか。あれがハッピーエンドだったら、それはそれでいいんだけど、なんか違う気がする。ごんぎつねとかもそうなんじゃないかな。和解してごんと仲良くやっていくよりも、殺めてしまったほうが、心が痛むし揺さぶられる。悲しみ涙を流すのも、終わったあとはスッキリするものだ。

 最後の理由は「読者にとっての教訓になるから」というのがあるんじゃないかと思った。これは僕だけかもしれないけど、悲しい結末というのは、読んでいて、こうすればいいのに、とかこうだったら良かったのに、ということをよく思う。「キジも鳴かずば」とか特にそうだ。ほんの少し村人が優しければ、ほんの少しのお金があれば、ほんの少しの寛容になれれば、なんでもいいから何かが少し変わっていれば、そうならない結末を迎えられたのに、と思う。そういう悔しさとかいたたまれなさ。それらが教訓となって、現実の生き方に影響するんじゃないだろうか。物語の著者は、わざわざそんなことを考えていないかもしれないけれど、昔話なら、そういう性質を持っていてもおかしくないと思う。

 月光条例では、もう少し別の結論を出していたような気がする。確か「寒い心の毛布」とかいうような。教訓ではなくて共感なのかな。ちょっとわからないけれど、読み返す時間もない。夏も終わることだし、この辺りで終いにしよう。