教えるということ

 まだ十分に紅葉もしていないのに、十二月が訪れようとしている。今日はずっと、雨が降っているのが聞こえていた。雨というのは、考える時間を取るにはちょうど良い。出かけるのに都合が悪いし、しみじみとした気持ちになるからだ。

 ハッカソンのイベントの手伝いをして、学生に対して技術的な指導をしたけれど、あまりうまくいかなかった。何かを教えるということは、とても難しいことだと思う。昔、読んだ森博嗣の小説で「教えるということは不可能だ」というようなことが書いてあった気がする。言葉遊びに近い極論だけれど、なんとなく次のような意味だったと思う。

 教えようとする立場の人間が、何かの事例を示したり、言葉で概念を示したりすることはできる。しかし、それを受け取ろうとする人間が、どのように解釈するか、理解するかは千差万別であって、そのままの形で伝達されることはない。教えようとしたことが、軽々と超えられてしまったり、全く別の概念と結び付けられているかもしれない。言葉を通じた歩み寄りがない限りは、教えようとしたこと、教わったことは一致しない。歩み寄りは双方が行うものだから、それは協力的な行為であって、どちらかが優位に立つことはない。教えるというのは、教えようとする側の傲慢な考え方だ。

 多分に嘘も混じっているし、僕もまるきり信用している主張ではないけれど、いくらか愉快な話だと思う。自分の知っている教員は、どこか尊大な態度の人が多かったので、対等だと思う材料が欲しかったのかもしれない。教えるという行為を除いてみれば、上下関係がやはり生じてしまうのかもしれないけれど。

 まあそれはさておき、学生と接して思ったことは、彼らはまだ未熟だということだ。歳の差は10歳近く離れているのだから、当たり前かもしれない。プログラミングをするための知識が足りていないし、それを補う時間もないので、とにかく「こうすれば動く」という答えを与えるしかない。そんなやり方をしても、理屈がわからないから、応用が効かない。自分のコードが書けない。結果的に「とりあえずやってみた」という経歴を作っただけで、彼らを成長させることはできなかったと思う。難しいことだ。そんな風に、教えることを考えていた自分は傲慢だったのかもしれない。