時速二キロメートルの散歩

先日、ポケモンGOがリリースされた。普段、ゲームの話題がない社内でも、半数以上の人が遊んでいるらしい。僕もインストールしてみたが肌に合わず、レベル四で足踏みしている。外へあちこち出歩く習慣がないからだ。その上、自宅の半径一キロ程度にはポケストップが一切なく、ポケモンが出る気配はない。

それにしても、気が遠くなるような熱さだ。蚊の侵入を防ぐため、窓は一切開けていない。しかも、この部屋には冷房がない。これは外に出たほうがましだ。そう考え、サンダルを履いて外に出た。珍しいことだ。運動や気晴らしが目的ではない。少し歩こうとして立ち止まる。通勤と違って、荷物もない。目的もない。遠出をする靴でもない。セミが一斉に鳴いている中で、どこで鳴いているのか、なぜ鳴いているのか、この暑さ、風、空の色など、夏を初めて経験する宇宙人のような気分になった。だから、目に止まったことをいつもより多く書き留めることにした。

すぐ側の家に目を向ける。枝を丸刈りにされすっかり生気を失った庭木。その隙間にはびこるクモの巣。セミも寄り付かない。どっしりした庭石が隠れてしまうほど雑草は伸びるままになっている。窓もカーテンも締め切られて人のいる気配はない。その場を離れて、畑と田んぼに囲まれた、いつもの道へ顔を出す。風にそよぐイネ。迷い込んだ小さなチョウ。脇にはエノコログサ。白い花をつけるヒロハホウキギク、紫色の花をつけるアレチハナガサがそれぞれひとかたまり。

柵越しに見えるカラフルな保育園の遊具。誰もいない。セミが遠くで鳴いている。少しスズメのさえずり。遠ざかるサイレン。左手でバッタが跳ねる。朽ちかけたヨモギ。ニラ科と思われる植物。歪んだガードレール。まだ緑色のススキ。人の背ほども伸びたセイタカアワダチソウ。その他、よくわからない植物の塊。ここに住み着いた時から変わっていない。おそらく二十年近く人の手が入っていない。おぞましいほどの密度。圧力。すぐ側の電柱を支える電線にまで何かのツタが絡む。

ふいに視界に入る黄色、あるいはオレンジ色のトンボ。ウスバキトンボだろうか。目が悪くて見えないが、少し仲間を連れている。水田。優しく水が流れる音。木の板で水の流れる量を調整している。どこからどこへ流れているのかわからないが、出口はここだとわかる。道を挟んで反対側に、雑草と野菜の混じる惨めな畑。ペットボトルを加工した手作りの風車。さらにその奥に国道とガソリンスタンド。背景には深緑の山。鉄塔がポツリポツリと並び、少し隠れて反対側の斜面まで続いている。

トンボが集まってくる。ふらふらとしてすぐに散る。彼らの羽が太陽の光を反射する角度が一瞬だけある。踏切の遮断機のリズム。大型車通行禁止の標識。涼しい風が抜けていく。イネがそよぐ音。用水路。ジャンボタニシの赤い卵塊。ときおり、不意に水が跳ねて波紋が立つ。目を凝らすとオタマジャクシの姿。あちこちでゆっくりと、親指ほども大きさがあるジャンボタニシが動いているのに気づく。ユスリカの蚊柱。木の水門を渡る蟻の行列。虫に食われた痕跡のある雑草。葉に痣のような斑点。その中に、場違いに大きく派手な黄色い花。ユリの仲間だろうか。スズメより一回り大きい、白黒の小鳥。おそらくシジュウカラと思われるもの。眺める間もなくホップしながら飛んで行った。アスファルトで干からびた哀れなミミズ。

すれ違う人の手に日傘。頭に麦わら帽子。また遮断機のランプが点滅した。何かのイベント用にペイントされた電車が走る。空の真上から重い音。全てを無視して縦断する飛行機。どこからかカラスの鳴き声。十七時。トンボが増えている。水田の上。二十か三十か、羽のきらめきと不安定な飛び方でそれとわかる。もぞもぞ動いているジャンボタニシが思いの外多い。すぐ側を見ただけで五、六匹はいる。

しばらく水田とトンボを眺めてから、同じ道を帰った。わずか二キロ程度の道のりで、一時間近くかかった。散歩と呼ぶにはあまりにも遅すぎる。少し汗が引くのを待って、名前の知らない雑草や動物の名前を調べた。見つかったもののほとんどが帰化植物で、良いものとは見られていないことがわかった。十年数の時を経て、ようやく名前を知ることができた。驚くほど、物事を知らない自分を知る。社会に疎いどころか、自然にも疎い。

名前以上にもっと、その生き物は情報を持っている。今日すれ違ったトンボが、どこからどこへいくのか。手触りはどうか。羽の模様はどうか。幼虫はどうか。何を食べるのか。夜どうしているか。知らない。植物も同じだ。ただそういうものがある、ということを知っているだけだ。どうやって増えるのか。どのように成長するのか。葉の形はどうなっているか。知らない。