どうぶつの国

 何度も寝返りを打った。深夜四時半をすぎてもまだ、眠気が来る気配はない。仕事をしている日中はただひたすら眠いというのに。感覚の狂った身体にうんざりする。もう朝だということにして、身体を起こすことにした。真っ暗な中に、コオロギ達の耳触りの良い鳴き声が聞こえている。布団に入る前から聞こえていたから、四時間以上も鳴き続けていることになる。人間だったら、もう話し疲れてぐったりしている頃だ。彼らが鳴いているのはコミュニケーションのためではないのだろうか。

 連休の間に、どうぶつの国という漫画を読んだ。動物と話すことのできる主人公が、人のいない弱肉強食の世界で生きていく物語だ。この話の面白いところは色々あるけれど、弱いものが強いものに殺される弱肉強食の理不尽さ、そして、それに対する怒りが強烈な印象として残っている。重いテーマを抱えながら、所々ギャグも交えられていて、なんというか雷句誠らしい感じがした。楽しく読みながら心動かされる名作だったと思う。

 ところで、冷静になって考えてみると、どうぶつの国にいる動物たちは、人間に近い感情を持ちすぎているのではないかと思えた。もちろん、動物にも感情はある。うちの猫だって、嬉しいとか悲しいとか単純な感情を持っているのはわかる。けれど、たとえば、子供や仲間を思いやる気持ち。理不尽に訪れた死に対する怒り。守れなかったことへの後悔。そういった感情は、人間以外に見られない感情ではないだろうか。言葉についてもそうだ。犬の鳴き声には何種類か異なる意味を持つものがあるというけれど、主語と述語を使って文を組み立てることはできないだろう。

 彼らが人間に近い生き物であることは、その容姿にも当てはまる。作中で主人公の家族となるタヌキたちは、着ぐるみを着た人のような姿で描かれている。ヤマネコやオオカミ等その他の動物の姿は、人としては描かれていないが、タヌキだけは明らかに様子が違っている。主人公と深い関わりがあるキャラクターは、感情移入させるために動物の姿にしないほうが良い、という作者の意図があったのかもしれない。

 上のような疑心を抱くうちにどうぶつの国に対する見方が少々変わってきた。すべての動物が仲良く暮らす平等の世界を築く物語。理想論を突き進む物語だと思っていた。しかし、全ての動物が人間寄りに脚色されているなら、人間と人間に近いものたちが仲良く暮らすようになっただけで、真の意味で動物と人とが平等の世界を築いたとは言えないのではないか。そんなふうに思った。物語として見応えをもたせ、感動的なドラマを生むために、虚構をかぶせている。作り物だ。

 そんな当たり前のことを今更指摘しているのは、それだけ没入感があったからかもしれない。実際に読んでいるときは、まやかしだとかこれっぽっちも考えていなかった。絵の迫力に飲まれて、ただただ主人公たちの信頼関係や、熱い戦いに心を揺さぶられていた。十分楽しんでいた。だから、その評価を貶めることはない。ただ、動物と人の間には、感情や言葉で埋めることがままならない差があるはずだ。理想の世界にひたるだけではなく、あるがままの世界も知っていきたいと思う。ナショナルジオグラフィックでも、見てみようか。