歳を重ねて

 年末の懇親会を終えてからは、家でじっとしていた。去年プラモデルを組み立てたことを思い出す。特別な喜びはなかったが、どこか厳かで徳が高まるような気がした。今年も静かに、何かを組み立てるのも良いかもしれない。膝にかけている毛布を目当てに、うちの老猫がやってきた。普段はベタベタしない猫なのだが、この時ばかりは別らしい。

 二〇十六年で、三十歳になった。ずいぶん長く生きてきたなと感心する。幼稚園や小学校のことは殆ど覚えていないが、それでも二十数年の記憶がある。中学校であったこと。高校であったこと。大学であったこと。大学院であったこと。就職してあったこと。僕は行事には消極的だったので、ドラマチックな思い出は皆無だが、それでもいくらかの楽しい思い出がある。写真は撮らない主義なので、卒業アルバムもぞんざいな扱いである。何一つ残っていないが、切り取って飾っておきたくなるような、美しい時間もあった。もちろんその逆に、辛い思い出もある。

 僕のように、消極的に生きてきた人間でさえ、積み重なった時間がある。テレビやインターネットで暇をつぶしてばかりの両親にも、長い人生の思い出があるのだろう。機会があれば、聞いてみるのも良いかもしれない。どんなに話が合わなく見えたって、年齢という重みは、話題を与えるだろう。

 大病を患って以来、おとなしくなった父を見て、彼の人生はもう、あとは緩やかに死ぬだけなのだろうなと感じる。寝転んでテレビを見て笑うことが日課になっている。何かを練習するとか、勉強するとか、作り上げるとか、日々積み上げるものがない。衰えるばかりで、成長がない。平均寿命を考えれば、あと十数年は生きられるだろうから、盆栽でも何でも、新しいことを始めれば良いのにと思う。

 まるで、生涯成長し続けることが義務みたいな書き方をしてしまった。成長を求めるかどうかなんて、ただの好みの問題だ。成長すること以外にも、きっと生きがいがあるだろう。よく言われるのは、子供や孫の成長を見ること。自分から何かを働きかけるのではなくて、ただ変わっていく姿を愛でる。それを一番の楽しみとする。そういう生き方。自分ではなにもしないというのが、ちょっとずるい気もするが、子を育てきった親の特権として、それくらいは許されるだろう。子供のいない老人は、もっと考えをふくらませて成長していく会社、業界、社会を見つめるのを老後の楽しみにする。そういう手もありそうだ。