自分で言葉を薄めてしまうこと

 毎日会社へ行く時に、近所の庭木に咲いているアセビの花を眺めている。小さな壺型の白い花を鈴なりに垂らしていて、ひと目でそれと分かるのに何年も気づいていなかった。桜のように華々しく咲いて散るものではないからだろう。よく調べてみると、アセビではなくてドウダンツツジというよく似た花だった。あまり区別する必要を感じなかったので、アセビと呼ぶことに決めた。

 後輩を叱って「こうしたほうが良いと思う」とアドバイスした事がある。あまり落胆させないように何か慰める言葉を探したが、良い言葉が思いつかなかった。たとえば「ドンマイ」とか「気にするな」というのは違う気がする。気にして欲しいから指摘した。気にされなかったら困る。「たいしたことじゃないけど」「些細なことだけど」とかいうのも違う。問題を小さくしたいわけじゃない。「人によって考えが違うから」とかは自分のアドバイスを自分で否定しているので、最初の意図に反する。結局何も言えないまま終わった。慰めるのではなくて励ます言葉が正解だったのかもしれない。「がんばれ」というだけでよかったのかもしれない。

 そんな風に僕は、何かを言おうとするとき、それは正しいのだろうかと自問する。反論を予測できたり、自分の主張にミスや例外を見つけたりできるからだ。しかし、マイナス面もある。何かと考える時間をとるので、動きが鈍くなる。判断に時間を要する。加えて、絶対に正しいという確証が得られるまで、主張をぼかすようになる。結果、説得力が弱まる。しょっちゅう「勘違いかもしれないんですけど」で話始めたり、話を終えるときに「まあ、いつもそうとは限らないですけどね」とか「個人的にはそう思いました」などという言葉がつく。そういうのが口癖になっていると、格好悪いなあと、ふと気づいた。

 会社で一番下っ端のときは、いくらでも自分を卑下してよかった。むしろ、先輩や上司の顔を立てるのには都合が良かった。しかし今は、五年も同じ会社に勤めて、自分より年下の後輩たちが何人も入社してきている。その中で、自信の無さそうな発言、保険をかけてばかりの発言をしていたら、説得力にかける。三十歳も過ぎたし、そろそろ、自分で言葉を薄めるようなことはやめにしよう。