かっこよくなりたいと思って生きている

 スズムシの鳴き声。鳴き声という言葉でしか形容できないのが悔やまれるほど繊細な音。全力で叫ぶセミとは対照的だ。伸びた雑草が足のすねに触れる。白い繊維質に包まれた、珍しい格好の花が咲いているのを見つけた。ほつれかけた造花のような姿をしている。調べたところでは、カラスウリの仲間のようだ。秋には実をつけるようなので、また様子を見てみよう。

 しばしば、人はどこに向かっているのか、何になりたいのか、という話を考えさせられる。僕はずっと、かっこよくなりたいと思って生きている。ここで言う「かっこよさ」とは、必ずしも容姿のことを言わない。信念であるとか。思想であるとか。見えないものを含む。

 たとえば将棋の羽生名人は、寝癖を気にしないらしく対局中も髪がはねたままになっていることも多い。この頃は老けてきて、ずいぶん白髪も増えている。けれども、将棋が強いというのはそれだけでかっこいい。攻防を兼ねた妙手。自玉を投げ捨てる紙一重の戦い。そういうものを生み出す知性を損ねるものはない。

 漫画で言えば「うしおととら」の主人公、蒼月潮はとてつもなくまっすぐだ。だれかがいじめられていたら、まっさきに助ける。ぼろくそに傷つきながら、裏切られても仲間には手を出さない。好きな娘のために溶岩に突っ込んでいく。自分にふりかかる理不尽よりも他人のために怒りの声をあげることができる。まっすぐであることは間違いなく一つのかっこよさだろう。

 「金色のガッシュ」では、キャンチョメとフォルゴレの二人組が気に入っていた。フォルゴレは「チチをもげ」という馬鹿みたいな歌を真面目にうたえるほどの道化でいながら、誰にも負けない不屈の心を持っていた。キャンチョメはどうしようもないほど臆病で貧弱だった。それでも、その臆病に引きずられながらも仲間や友人のために戦うことができる勇気を持っていた。馬鹿なところがあっても、臆病であっても、かっこよくなれるのだと教えられる。

 漫画やゲームの世界を眺めるなら、書ききれないほどの「かっこいい」を挙げることができるだろう。けれど、現実の中にもさりげない気遣いやふるまいの中にそれは潜んでいる。風で倒れていた未知らぬ自転車を、無言で引き起こしていた柔道部の彼。人の欠点を自分の悩み事のように話し、気づかせようとするクラス委員。すべてがそうだとは言えないが、学校の先生や父親もまた、そういう面を持っていた。

 ここに書いてきた「かっこよさ」というのは言い換えると美徳に近いかもしれない。けれど、美徳というには普遍性に欠ける。何をかっこいいと思うかは僕だけしか知らない。