何のために勉強するの

 シダの隙間に濡れたヒガンバナを見かけた。花弁と花心はいずれも血のように深い紅色で、葉は一枚もない。この攻撃性を感じさせる奇妙な花は、思いの外生命力が強いのかもしれない。植えた覚えもないのに庭を侵略し始めている。

 最近、ゲームをするのを少し控えて、勉強するようにした。ふと、子どものような疑問が浮かぶ。勉強するのは何のためだろうか。まず思いつくのは、勉強したほうが、仕事を探す上で有利になるということだ。

 勉強しなかった場合は、良い仕事を見つけることが難しい。なぜかというと「自分にできる仕事」が「誰にでもできる仕事」になってしまうからだ。誰にでもできる仕事は、働き手がたくさんいる。働き手よりも仕事のほうが少ない。働き手は、少ない席に座るために、多少の悪い条件には目をつぶらなければならない。

 勉強した場合は「自分にできる仕事」が「勉強した人だけができる仕事」になる。勉強した人だけができる仕事は、働き手が限られている。働き手よりも仕事のほうが多い。働き手は、数ある仕事の中から、好きなように選ぶことができる。

 ところが実際には、勉強といっても、実際の仕事とは直結しない勉強も多い。たとえば、中学校の数学で習う台形の公式を、そのまま使う仕事があるだろうか。おそらく、ほとんどない。子どもがなぜ勉強をするの? と聞きたがるのも、もっともな話だ。大人はたぶん、こんなふうに答える。役に立たないと思われていることは、基礎である。それらを組み合わせ応用していくことで、現実的な問題や社会で求められる能力につながっていく、だから役に立たないことも学ぶべきだ。

 きっとそれは正しい。けれど、ここではそれとは別の言い方をしよう。勉強にはある種の気持ちよさがある。できなかったことが、できるようになる、という快感がそれだ。ゲームで例えるとわかりやすいかもしれない。歯が立たなかったボスを倒せるようになる。失敗してばかりだったステージがクリアできるようになる。思い当たることがないだろうか。それがわかったなら、役に立つか、立たないかなんて、どうでもいいことに気づくだろう。楽しいからやる。気持ち良いからやる。それだけでも事足りる。ごはんを食べるのも、誰かとおしゃべりして笑うのも、必要があってそうしているわけではない。役に立つからそうしているわけではない。勉強もそれと同じで、楽しく生きて行くための選択肢の一つだ。しかも、楽しいだけじゃなく将来有利に働く。こんな話をしたら、勉強したくなってくるんじゃないだろうか。いや、そんなことはないか。