夢と目的

 震えながら服を脱ぎ、着替えた。空気が冷えている。しかし、家を出てみれば、思いの外日差しが暖かかった。空は透明で、雲は形なく薄っすらとしている。駅のホームでは、日陰の寒さが堪えた。老いた夫婦が、わずかな日向を求めて歩いて行くのを見ていた。

 ほとんどすべての人は、子どもの頃「将来の夢は何?」という作文を求められたことがあるだろう。模範解答として、スポーツ選手とか宇宙飛行士、あるいは弁護士とか医者なんかがあげられる。しかし、そんな仕事に就けるのは、一握りの人間でしか無いことは小学生にだってわかる。だから、軽々しく将来の夢を言えない。一方で、公務員とかサラリーマンとか答えると、夢がないとか子供らしくないということで大人たちをがっかりさせてしまう。そういうわけだから「将来の夢は何?」という質問は、かなり厄介な質問である。だから自分の場合は「宝くじ一等を当てて旅をする」という夢を書いた。両親はこの答えを恥ずかしがっていたが。

 今になって思えば、大人たちの反応や、実現できるかどうかは、夢を考える材料として適当ではなかったと思う。夢には眠っている間に見るものと、起きている間に見るものとの二つがあるが、眠っている時に見る夢は、脈絡のない、目的もない幻だ。だから、起きている間に見る夢も、それで良いのではないかと思う。実現できなくてもいいし、実現する気がなくてもいい。単に思い浮かんで、もしそうなったら面白そうだと思えるもの。自分の環境や余計な情報を取り払って、ただ面白そうなものを選べばいい。誰かの期待に答える必要はない。それは目的を定めることと似ている。

 目的という言葉は小学生でも書くことができるし、よく耳にする言葉だが、それをうまく使うのは非常に難しい。目的と手段を混同してしまうことが多い。たとえばあなたの住んでいる街の市長が「橋を作ろう」と言い出したとしよう。この場合、市長の目的は橋を作ることではない。橋を使ってどこかに行きたいという欲求があって、それを満たすために「橋を作る」のだから、それは手段である。

 市長は「手付かずの鉱山を開拓するために、橋を作ろう」と、言い換える。すると、目的は「鉱山を開拓する」ことになる。鉱山を開拓するだけなら、必ずしも橋でつながっている必要はない。船で行けるのかもしれないし、迂回路が有るかもしれない。行くのが難しいようなら、そこに移住してしまうという手も有るだろう。だが、市長は無意識に「橋」という手段を選んでしまった。

 手段の議論が盛り上がったとしても、実は本当の目的は隠れている。なぜ鉱山を開拓する必要があるのだろうか。実は、市長は無意識に「鉱山を開拓する」という手段を選んでいる。鉱山を開拓するのは、商売をしたいとか、何かの材料にしたいとか欲求があってのことだ。それを考えて言い換えると、市長は次のように言わなければならない。「市を豊かにする一案として、鉱物資源を使った事業を始めたい。手付かずの鉱山があるから、そこを開拓する。まずは経路を確保するために橋を作ろう」結局、市長の目的は「市を豊かにする」ことだ。橋を作ることでもないし、鉱山を開拓することでもない。

 さらに目的をさかのぼることもできる、市を豊かにするのは自分の名誉のためであったり、市民の幸福のためである。だから真の目的は「市民の幸福」だと言うこともできる。しかし、このような過剰な抽象化はほとんど意味がない。ほとんどすべての行為の目的が「自分の幸福のため」だからだ。食事をとるのも睡眠をとるのも、仕事をするのも目的は自分の幸福のため。こんな風に、言うまでもない話で氾濫する。

 また、目的が練られないまま「橋を作る」でスタートしてしまうと、思いがけない悲劇が起こる。橋を作るだけで予算を使い切ったり、鉱物資源の重量に耐えられない橋が作られてしまったり、本来やりたかったことが満たされないまま事業が終わる。だから、目的と手段を混ぜないようにするのが良い。夢もたぶん同じことが言える。どうやって実現するかは一切考えずに夢を決める。その後やりたくなった時に手段を探せばいい。