いきなり学生編

 へいおまち。

 小学校の頃は、教師になりたいと考えていた。この理由は、はっきりと覚えていて、それは自分の担任の先生が優しくて面白い人だったからだ。その先生は、珍しいことに図工を専門にしていたらしくて、学級だよりとか、何か配る時に、手書きのイラストを書いていた。あと、図工の時間を長めにとったりとか、色々と工夫してくれていた気がする。もう具体的に何だったかは覚えていないけれど。糸鋸とか使わせてもらったり、色々やった。だから、そういうのすごいと思って先生になりたいと思っていた。それは、たぶん一般的な教師になりたかったんじゃなくて、その先生になりたかったんだと思う。

 中学校の頃は、けっこう面白い教師もいたけれど、それ以上に嫌な教師がたくさんいたので、教師になりたいとは思えなくなった。兄の影響で吉川英治三国志とか読んだり、叔父の影響で三毛猫ホームズとか読んでいたので、活字に触れることには抵抗がなく、国語得意なのではと思い始めた。少し文章を書いてみたりもしたけれど、ほとんどが支離滅裂なギャグ系の文章で、今よりもずっと本能型だったと思う。夢とか目的は全然なくて、ゲームが好きだったからゲームプログラマーになりたいな、という気持ちはあった。ゲームを作る人はディレクターとかプロデューサーとか、プランナーとか色々あるはずなのに、なぜプログラマーしかないと思っていたのかよくわからない。たぶんバカだったんだと思う。毎日のように格闘ゲームした。

 高校生の頃は、一年生はほぼ格闘ゲームしかしてなかったけど二年生あたりから、かなり真面目に生きた。先生が野球部で体育会系なのに優しくて数学担当、という稀有な人だった。体育会系といえばチンピラだと思っていたのが大きく覆った。先生はかなり真面目な人だったので、この人に褒められたいと思って真面目に勉強した。三国志読んでたバフのおかげで、古文とか漢文はめちゃくちゃ得意だった。何も勉強してないけど文法の八割くらいがわかって国語無双した。さらに、叔父がゆずってくれた森博嗣の本にいたく感動して、中二病を超えた自意識過剰な状態になる。かなりポエムを書いた気がする。誰にも見せてないし、もうとっくにゴミ箱行きだが。なりたいものとか目標はなくて、ただ親や先生に認められたいから真面目に勉強した。

 大学生の頃は、まあまあ真面目に生きた。友達は一人しかいなかったので、やることがなくて勉強していた。もはや認められたい人もいなかったので、何か「勉強真面目にしてる自分格好いいのでは…?」みたいな感じで勉強していた。しかし大学は割と理不尽で、教師がお気に入りの学生を優遇したりするし、先輩とのコネがある人だけ過去問を入手できたりするので、不信感がけっこうあった。そのころ目的があったかというと、あんまり覚えていない。たぶん目的はなくて、誰も認めてくれないので勉強するのが馬鹿らしくなってモンハントライとぷよぷよフィーバーに没頭していたと思う。でもたぶん成績は自分のアイデンティティの一部だと思っていたので、成績だけは落とさないようにしていた。

 大学院の頃は、研究室の後輩が格闘ゲーム好きだったので仲良くなれた。ただ教師に「何をしても怒られるしダメ出しされるので、何もできない」という状況になって保健室行きになった。これまではたぶん「先生=褒められたい人」がほとんどだったので、ただひたすら頑張ったし気に入ってもらおうと思って努力したけど、それは意味がないんだと気づいた。そして「その男=ぶっ殺したい人」なんだと理解してからすごく楽になった。おかげさまで、かなり頭が働くようになったと思う。ここで清濁併呑の感覚が出てきたような気がする。目的とか夢とかは考える余裕はなくて、とにかく入れる会社なら何でもいいと思って就職した。

 就職してからの話はまた明日。

くすぶる夢

 「小説書くって言ってたけどどうなったの?」と聞かれた。素晴らしい指摘だ。一言で答えるなら「書いてない」ということになるが、書いてないことから気づくことがあったので、まとめてみよう。

 夢というのは二つに分かれるような気がしている。一つははじける夢で、もう一つはくすぶる夢。

 はじける夢はとても簡単で、たとえばプロ野球選手になりたいとか、棋士になりたいとか、そういう感じのもの。成長していくうちに無理だということがわかるもの。年齢的な限界があるもの。取り組んでいたとしても「ああこれで終わりか」と感じるような終息するときがかならず来る。どんなに頑張っていても、ある時シャボン玉がはじけるように全てがなくなる。それからは別の道を歩まざるをえなくなる。

 一方のくすぶる夢は、漫画家になりたいとか、小説書きたいとか、弾き語りしたいとか、そういう感じのもの。いつまで、という終わりが不明確で、年齢的な限界がないもの。必死にやっていようと、気まぐれにやっていようと、終わりは来ない。うまくいかなくて、あるいは時間が足りなくて離れたとしても、燃えさしがずっと残り続ける。

 よくいる売れないシンガーソングライターとか、くすぶる夢の代表選手だろう。もしかしたら売れるかもしれない。あるいは、好きで続けていてやめられない。人々に認められるだけの作品を打ち出すことはできないけれど、何か沼にはまったように、そこに居続ける。

 これは、不毛なことなのだろうか。全力で打ち込むことなく、ただずるずると同じことを続けているのは。完全燃焼して、砕け散るほうがまだいいのだろうか。砕け散った後大成しないとわかっていて、続けるのは許されるだろうか。いや、許す許さないとか、良し悪しなんてものはない。本人がよければそれでいい。というのが常識的な判断だ。うまくいくかどうかよりも、楽しめるかどうかのほうが大事だ。

 でも、そんな当たり前の答えに着地しても、ちっとも嬉しくない。もっと心を奮わせるような答えはないか。そう考えてすぐ思い浮かぶのがラブライブの歌だ。「勇気はどこに?君の胸に!」という歌でうたっている。

何度だって追いかけようよ 負けないで 失敗なんて誰でもあるよ 夢は消えない 夢は消えない 何度だって追いかけようよ 負けないで だって今日は 今日で だって目覚めたら 違う朝だよ

(三十分ほど曲を聞く)

 聞いてると頑張ろうと思える。楽しめるかどうかじゃなくて、くすぶる夢であっても、それを追いかけることがとても素晴らしいことのように思える。そして、なんでそうするのか? それは「だって、目覚めたら違う朝だから」すげーわけわからん。だがそれがいい。力が湧いてくる。あとユメノトビラとかも聞いとけばおk。

善行できるかな

 善行というものについて考えた。電車でお年寄りに席を譲るとか、道に迷っている人を案内してあげるとか、落とし物を拾って手渡してあげるとか。そういう助け合い精神というのは動物にもあるらしい。この前、自分の子供じゃないのに、群れの中にいる子供を助けたゾウの話を聞いた。それはたぶん、合理的だからそうするのだろう。余裕のある者が、余裕のない者に手を差し伸べる。それは、分子の結合みたいなもので、持たないものと持ってるものが結びつく自然なことなのかもしれない。

 だから、おそらく多くの人が上に挙げたような善行はするべきだし、自然とできるほうが好ましいという教育をされてきたはずだ。それは確かに合理的なので、そうしたほうがいいだろう。けれどしかし、実際には、誰かに席を譲ったり、何か善行をするのは難しい。

 それはなんでだろうか。一つには、その人が本当に余裕が無いのかどうかわからないから。もしそこを読み違えてしまうと、失礼になるかもしれない。なぜなら「あなたは余裕がなさそうだから席を譲ってあげるよ」という押しつけになってしまうので。そこで、断られてしまったら、なんとなく居心地の悪い感じになってしまう。逆に、青い顔で立っているのも辛そうな人なら、席を譲りやすくなる。

 もう一つは、困っていてもなんとかなるような時代になってきたから。たとえば道に迷っていると言っても、最近の地図アプリは優秀なので、ゆっくり時間をかけて調べれば、目的地までたどり着けるだろう。困る状況が減っているので、助ける機会も減っているというわけだ。

 さらにもう一つ。自分じゃなくても誰かが助けにはいるだろう思ってしまうから。有名な「誰も消防車を呼んでいないのである」というやつだ。火事というのは目立つし、たくさん人が集まってくるから、誰かが消防車を呼んでいるだろう。助けに入るだろう。と考えて誰も動かなくなるというパターン。

 まだもう一つある。一番言いたかったやつ。それは「何かっこつけてんの?」と思われたくないからだ。率先して善行をやるのは、どう考えても目立つ。それは点数稼ぎみたいに見えるし、何か社会に対して媚びているような感じさえする。誰も見ていないところでも同じ善行ができるのか。心からその善行をしているのか。ポーズだけじゃないか。そういう不思議な、合理性とは関係のない所でプレッシャーを感じて、踏みとどまってしまう。わけがわからない気もするけど、自分はそうだ。

 「これって、あれじゃない? 席譲ったほうがいい系の流れ? うーんどうしよう。ああでも、何かこう大丈夫そうな感じ? だからまあ、ちょっとくらい我慢してもらって、そのままでも大丈夫だよね。うんそれでいいや」みたいな感じの見逃し善行がわりとある。こんなしょうもない葛藤をする度に、しょうもない大人になっちゃったなと思う。警察官とか、教師とか、何かを背負っている人たちだったら、見得を切ることもなく、さらりと善行できるんだろうか。

 それにしても、なんて人間はめんどくさいんだろう。「余裕あるけど、余裕あげようか?」みたいな単純なことのはずなのに。

苦手なもの:街

 少し用事があって、一人で街の中央に遠出することになった。グーグルマップを開いて、目的地を検索する。職場から一駅離れた場所だということがわかった。それなら多分行けるだろう。

 前準備はそれだけで、当日になった。すると、かなり緊張して血の気が引いた。小便を漏らすんじゃないかというくらいの状態で歩いた。それでも、どうにか目的地までついて、用事を終わらせた。ほっと一息ついて足を休める。ただ街を歩いただけなのに、言いようのない寂しさを感じた。

 それはたぶん、何も知らない自分を思い知らされたからだ。わずか一駅離れただけなのに、何も知らない。綺麗な店。高いビル。光る看板。きらびやかなものが、ものすごい密度で、把握できないほどの施設が集中している。歩いても歩いても立ち並ぶ。目眩がしそうなその中を、周りの人達はすいすいと歩いていく。

 彼らにとってはそこが居場所なんだと思った。そこに、言いようのない溝を感じる。ふいに、友人から一報が届く。「こういうレストランに行ったよ」とそれだけの話しだった。良かったねと適当に返事をしながら、添付された地図を開いた。ここから一駅くらい離れた店からだった。こんなに近くなのに、わからない。ああやはり、自分は何も知らないのだ、と立ち竦んだ。地図アプリが気を利かせて、他のレストランを提案してくる。そのまま任せてみると、 画面が窮屈になるほど候補が出てきた。知らないものばかりだ。地図を縮小してみれば、さらに知らないものだらけになる。少し北の方を眺めてみる。色々なお店や観光地が流れていく。

 とてつもなく寂しい気持ちがした。ただひとつの街でさえ、知るに及ばない。日本でさえ果てしなく広い。世界を見る気にもなれない。自分は、圧倒的に小さな生き物にすぎない。外に出る気概もない。旅人の話を聞いて、遠くへ思いを馳せることはあるけれど、そういう自分に同じ経験ができるのか。圧倒的に生き方に違いがあるという事に気がついて、無性に寂しくなった。

プレゼンつっこみおじさん

 人のプレゼンを何度か聞いてきて突っ込みたいなと思いながら結局言えずじまいのことがたくさんあるので、ここに書き並べることにする。

 まずひとつ目は、プレゼンのタイトルについて。タイトルは自由につけてよいと思うが、最も無難なのは「私と○○」だと思う。○○のところには、趣味とか技術とか発表内容をいれる。これが無難な理由は、発表内容がどんなものであっても「個人の視点でみた○○との接し方」を語っているのだから、聴衆が納得しやすいということだ。とはいえ、こういう無難なタイトルは刺激が少なくてつまらないと言われてしまう可能性は避けられない。

 刺激的・挑発的なタイトルをつけるのも悪くはない「お前らの○○は間違っている」とか「○○になるための10の方法」とか「まだ○○で消耗してるの?」とか。ただその場合、聴衆は「おう、上から目線から来たなオイ、少しでも間違ったことを言ったら叩きのめすぞ」と身構えるので注意が必要だ。けれど、そんな風に感情を揺さぶるタイトルのほうが、議論がヒートアップして面白くなるのかもしれない。

 二つ目は「その言葉いる?」って話。いやまあどんな言葉を使うのも自由なんだけど「平仄をあわせる」とかいくらでも簡単に言えそうなことをわざわざ難しくしたりとか。あと意味の広い言葉をホイホイ使うのも気になってしょうがない。「社会実装」とかなんやねんって。関西人でもないのに関西風ツッコミしたくなるくらいにはソワソワしてしまう。そらまあ想像できるよ。人は想像する生き物なので。でもなんか各自想像して話を進めるのって間違った方向に進みそうな気がするので、やはり避けるべきことなのだと思う。

 三つ目は、何かを比較するときについて。プレゼンでは「A より B のほうが良いです」と主張することがよくある。たとえば Safari より Google Chrome のほうが便利ですとか。犬より猫がかわいいですとか。そういう風に比較をするときは、まず A と B は比較可能なものにしなければならない。

 何をそんな当たり前のことを、と思うかもしれないが、意外とできてない。「絶対にそうしろ。振り返り悔改めよ」と声を荒げたくなるくらいには、できてない。できてない例を言うなら、移動手段を比較するときに「徒歩」と「自転車のBROMPTONに乗る」とかを比べだす人がいる。わりといる。普通に考えれば「徒歩」と「自転車」で比べるべきなのに、片方だけやたら詳しい。おそらくその人はBROMPTONの自転車に乗っていて詳しいから、ついそれを話してしまうのだろう。犬猫比較の例もそうだ。「コーギーは猫よりかわいい」とか言い出してしまう。気持ちはわかるけど、おかしいことに気づいて。

 そして A と B が比較可能になったら、かならず表を作れ。せっかく比較対象を持ち出したのに比較しない人がいる。たとえば「価格を見ると B より A が安いです」と入った後に「使いやすさの点でいうと A が使いやすいですね」みたいな物言いだ。聴衆は心の中で叫んでいる「B は使いにくのか? どっちやねん」都合の良いポイントだけ比較して A を売り込もうとしているのかと勘ぐってしまうし、とても聞いていて落ち着かない。

 最後はドンデンドンデン返しについて。ここで言いたいのは「主張を何回も反転させるな」ということだ。思考の流れとしてはスムーズだったとしても、主張をめちゃくちゃかき回す人がいる。たとえば次のような感じだ。「最初は A と思ってました。しかし B ということがわかり、A ではないと思いました。ここで実験を試みて B が疑わしいということがわかりました。それを突き詰めることで、やはり A であるという結論に至りました」あーはい頑張りましたね。と言いたくなる。いやまあ頑張った物語を伝えたいならそれで正解だしドラマチックで面白いんだけど、あなたが伝えたいのはドラマじゃないでしょ。的な。いやまあ楽しさも大事だけどさ。

 どうしたらいいかというと「いろいろ実験した結果 A ということがわかりました。B と思うかもしれませんがこれを否定する材料はこれこれです」みたいな展開にすればいい。そうすればさらなる否定材料 C D E が出てきてそれに立ち向かっていくようなストーリーにもできる。こういうの、本当にこだわらない人も居て、発表者の気持ちをトレースしたいと考えてる人にとっては、ドンデンドンデン返しは、まるで少しも気にならないようだ。

 こういう感じで本当に色々と悶々としている。探せば多分もっとあるはず。でもそういう指摘ってだいたい相手を萎縮させるだけで嫌われるので、あまり言わないほうがいい。なぜなら直さなくても、中身は八割がた伝わるから。あと発表した人が議論したいのはそういう部分じゃなくて中身の話だから。そう、普段は口を閉ざしておくので、書捨ての日記くらいは。

感情を分析しろ→しなくてもいい

 12月は一人でアドベントカレンダーをやるつもりだ。 https://adventar.org/calendars/3628 どうせ記事はここに書くので、上のURLはなんの意味もない。モノクロの例のアイコンが並んでいる姿はなかなか不気味である。

 なぜそんなことをしようと思ったのかというと、一つは実験だ。最近ブログを書くときに時間をかけすぎる傾向がある。練りに練ったものを送り出そうとして、完結しないままお蔵入りするのだ。自分の過去を振り返ると、ブログ記事に限らず、いろんな創作物がそのような傾向にある。これは良くないことのように思われるから、たとえ内容が薄く、推敲の甘い文章であっても世に放り出してみるのはどうか、と思ったのだ。考えをすばやく書き出していく瞬発力が鍛えられるに違いない。もう一つは宣伝だ。何か転職活動をしようとか、文筆業で食っていこうとか考えたときに、そういうことができます。という実績として役立つかもしれないと考えた。

 宣伝はさておき、書こうと思ったまま、まとめられていないことについて少し話をしよう。それは、感情の分析に関することだ。たとえば、怒りを分析しよう。あなたが書いた傑作プログラムを見た上司が「そのコード、ひどいもんだ。どれ、俺に貸してみなよ」と言ったとしよう。あなたは思うはずだ。「ふざけるな。俺がどのような試行錯誤と熟慮の末にこれを書き上げたのかも知らないくせに、勝手なことを言うんじゃねえ」その上で、もしそれを口に出したとしたら、二人は殴り合いの喧嘩になるだろう。そういうときに、感情を分析する力があれば、争いが生まれずに済む。

 すぐさま殴り合いを始める前に、怒りを感じたその瞬間に自らに問いかける。「なぜこんなにも腹が立つのか?」それは、自分が長い時間を費やして、どうにか動くところまでこぎつけたプログラムを貶されたからだ。決して良いプログラムではないにしても、努力の末に書き上げたものだ。だからそれを否定されたくない。こうして感情の原因を知ることで、怒りを鎮めることができる。そうすれば、あとは上司がプログラムの品質を上げてくれる、という良い結果だけが残るだろう。

 こんな風に、感情を分析するということは、良くない感情を鎮めるのにとても役立つ。嬉しい感情を分析すれば、自分の好む事柄を見つけるのに役立つだろう。ごく当たり前のようであるが、なかなかそれを意識的にするのは難しい。だから僕の場合は「不満です」とか「腹が立ちます」みたいなことをまず表明することにした。「理由は今から考えます」みたいにしてあとづけする。そうすれば、相手をびっくりさせてしまうかもしれないが、殴り合いをせずに済むし、アドバイスも受けられる。

 ここまでのことを「すごくいいことを発見したな」と思っていたことのだが、最近、それが少し逆転し始めた。感情を分析すればいいというものではない。分析しなくていい感情は、存在する。それが何かと言うと、たとえば「友達が結婚したのが悲しい」という気持ち。これを分析してみるなら「友達が結婚したことによって、その友達と過ごせる時間が減ってしまうだろう」という推測による悲しみ。「自分が結婚できない中で先を越されてしまった」という悲しみ。「結婚できるはずないとある意味見下していた友達が結婚できてしまった」という悲しみ。とにかく、いろいろと好ましくない考え方が溢れ出てくる。自分のくだらなさとか、いたらなさというのが湧き水のように染み出してくる。なんだそれは。意味あるのか。意味なくないか。というのが逆転の始まりだ。

 そういう風に、己の醜さがあらわになるだけの自己分析は、たぶんやるべきでない。わからないままでいい。実際、わからないままでいいことは、たくさんある。たとえば、C = A or B という論理式について、 A が真なら、B の真偽を問わず C は真となる。どんなに複雑な式であっても、それは同じだ。X = A and (B or (C and D) or E) とかの難しそうな式でも A が偽なら、ほかの B,C,D,E にかかわらず X は偽になる。わからないままでも、話が進められる。わからないままでも、わかるところだけ式を変形できる。そういう論理的な性質が、感情の分析にも使えるのではないだろうか。

 自分のことを細分化して細分化して、分析して明らかにしようといつも考えてきた。DNA解析みたいに。けれども、DNAは G C T A の四種類の塩基がただひたすら並んでいるだけだ。そこから得られる知見もあるだろうが、そこからは決して得られない知見もある。分解せずにそのままでいいじゃないか。辛いとか悲しいとか、とりあえずそう感じるままにしておいて、原因の解決も、改善も何も考えずに、ただ心踊るような音楽と、美味しい食べ物でも用意すればいいじゃないか。

警察官をクビになった話の感想

警察官をクビになった話 を見た。あらすじは下記のようなもの。

 警察官になることを夢見る少年がいた。彼は努力の末に警察学校に合格する。しかし、何かと要領が悪い少年は、訓練で周りの足を引っ張ってしまう。それが何度も続くうちに、同級生からいじめを受けるようになった。教師も見て見ぬふりをするどころか、いじめに加担するようになっていく。寮という閉鎖的な場所で、暴力を振るわれ、罵られる日々が続く。

 状況は改善の兆しを見せない。その一端には、彼自身の能力不足があるのだろう。わかってはいるが、もともとの夢であった警察官を諦めることができない。彼は耐え粘り続ける。虚しい努力が続く。

 そんな努力を意に介さず、むしろ疎ましく思った教師たちは狡猾な策略を仕掛ける。親を呼び出し悪し様に言う。指導と称して食事時間を奪う。連帯責任で恨みを買うように仕向ける。

 それほど疎まれているのだと痛感した少年は絶望し、退学の道を選んだ。無能の烙印を押され、心の傷が癒えないまま職を求めるが、失敗し落ちこぼれていく。

 弱者を守るべき警察官が、弱者を虐げる矛盾の恐ろしさ。そして、夢に縛られる苦しみ。報われない努力の虚しさ。壮絶というほかない。

 少年はいったいどうすれば良かったのだろう。いじめに対してよく言われるのは「逃げろ」というアドバイスだ。なるほど、そうかもしれない。一方的で理不尽な攻撃に対してできるのは、それぐらいのことしか無いのかもしれない。

 ただこの場合、逃げることは、夢が断たれることを意味している。これまで積み上げた努力を放棄することを示している。過去の自分を否定するのは容易なことではない。知った顔をした大人が、そんな辛い決断を促すのは無責任な言葉のように感じる。

 でもそのままじゃ駄目だということは本人も感じているだろう。だから、警察官になれないとしたら、何をするのかというのを考えてもらうのがいいかもしれない。それ以外のやり方で、夢のいくらかを満たせる仕事。いや、仕事でなくたっていい。ボランティアか、あるいは趣味か。見苦しかったり、効率が悪かったりするかもしれない。誰からも褒められないかもしれない。それでも、やりたかった事の何割かは実現できるはずだ。

 もし、やりたいことに一ミリも関われなかったとしても、仕方がない。夢はなくとも生きていける。代わりに幸せと思しきものは、あちこちに漂っている。見つけようと目を凝らし、近付こうと藻掻くことはできるだろう。それが蜃気楼のように消えてしまうから、難しんだけれども…。夢が破れようがなんだろうが、その先にもいろいろな道がある。

 焼け石に水かもしれないが、水を注ぐ人の存在が、僅かばかりの勇気の種になることがあるかもしれない。もし挫けそうな人が居たら、なにか声をかけてやりたいと思う。