ポーカーあるいは麻雀のように

 受け入れることのできる容量が決まっていて、そこに何かを詰め込まなければいけない問題を考える時、それをポーカー(あるいは麻雀)に例えてみると面白いのでは、と思った。たとえば、プログラマのスキルセットを考える。今の自分は下記の五枚のカードを持っている。

 上の3つで「Web プログラマ」という役ができていて、まあ食っていけるくらいの収入になる。ここに「デザイン」とか「マネジメント」とかの手札を持ってくると「Webディレクター」みたいなもっと強い役になる。今なら「機械学習」とか「ブロックチェーン」というのが流行っていて強いカードなのかもしれないが、このままではスキルのシナジーがあまりないので、良い役が作れない。

 良い役を作るには、手札を捨てていかなければならない。「ブロックチェーン」手札を活かす役をつくるなら、クズ手札を「C言語」とか「英語」とかに組み替えてみるといいかもしれない。機械学習についてはよく知らないけれど「Python」「アルゴリズム」「数学」とかと組み合わせると良い役になりそうだ。

 新しいスキルを手に入れるうえで、何もスキルを捨てる必要はないじゃないか、と思うかもしれない。確かに、このポーカーは現実に即していないが、全く配慮なしというわけでもない。仕事で使えるくらいのスキルの鮮度を保つとしたら、だいたい5個くらいだろう、という感覚を表している。

 同じようにして今遊んでいるゲームアプリについても同じようなことを考えた。

 これを捨てて「物書き」みたいな手札を仕入れようとしている。さて、どれを捨てるべきだろう。そういうふうに例えてはみたものの、それぞれに割いている時間は全然違っている。だから、ポーカーはうまく問題を表現できていない。そこでカード1枚で30分というふうに考えてみよう。そうするともう少しわかりやすくなる。体感だと下のような感じ。

 麻雀みたくなってきた。上の六枚はペアになっているので1時間くらい。下の二枚は30分くらい。ゲームの時間をへらすなら、それぞれ一枚ずつ残るように捨てるか、あるいは下の二枚を捨てるか。実はここには見えない手札「仕事」が詰まっていて、それを捨てれば新しいものが入るようになる。

ゲームアプリを減らすなど

 出かけなくてはいけなかったので、昼頃に風呂に入った。新しい話を書こうと思って、じっと考えていると、すぐに時間が過ぎる。手足がふやけるくらい浸かっていた。異世界転生ものについて、死んでから転生するまでの話を考えたので、次はそれを書いてどこかに投稿してみようと思う。

 その後散髪に行ってきた。仕切りの隣から話し声が聞こえてくる。店員と客は知り合い同士で、スノーボードについて会話しているようだ。一方が「朝のうちにリフトの一日券を買って十分滑ったら、昼頃にそこに来た人に売って帰ると節約できる」という軽犯罪になりそうなテクニックを自慢げに話していた。あとはメルカリでブーツを買ったとかそんな話だ。なんか怖いので視線が合わないようにしよう、と思った。こういうふうに線を引くから人と仲良くなれないのかもしれない。

 あとは日課のゲームアプリをこなして、合間にスマブラをしているとあっという間に一日が終わってしまった。その上、崩壊3rd をインストールしてみようかとかなり迷ったが、やめた。チェンクロのレイドイベントが始まっているため、油断できない。残り8日間。今LV200のうち50まで済ませたから一日20くらい済ませるつもりでいよう。とある魔術の禁書目録のコラボだけれど、残念ながら一度も見たことがないし、見る余裕が無いのでかなり控えめにやる。

 ドラガリアロストのメインテーマを歌っているDAOKOのアルバムを買ってみた。知っている二曲はいいな、と思ったけれど、初めて聞く曲は特に何も感じなかった。鈍感過ぎて情けない限り。

 ロマサガは順調だけどもう飽き始めている。ストーリーがつまらないので、もうやめてもいいかもしれない。こうして日記に書き込んで、自分がそれを楽しんでいないことに気がついたのでアンインストールした。ありがとうロマサガ。さようなら。ついでに、時間をもりもり食べていくダンジョンメーカーも削除した。これで明日は少し健やかに生活できるだろう。

悲しいときどうするか

 嬉しいことはともかく、本当に悲しいことは、誰にも言わないようにしている。たとえば、親しい人が命を落としたときが、そうだ。そのことを話しても、誰も自分の悲しみを癒やすことはできないし、周りの空気が重くなる。なにより、死んだ人は戻ってこない。だいたい、本当に悲しいことは、どうしようもないことなので相談しようがないのだ。

 それに、有名人が亡くなった時に流れるニュースも嫌いだ。さして親しくもないし、関わりもなかった人たちが、追悼のメッセージを送る。生前の言葉や映像を引っ張り出してきて放映する。葬儀の様子をテレビで流したりする。そんなことをして意味があるのか疑問だ。誰のためなのだろう。死んだ人の為ではないだろう。その人の周りにいる悲しんでいる人たちはそれを望んでいるのだろうか。悲しいできごとを利用して注目を集めているだけのような気がする。

 本当の悲しみを自分が持ってないのかもしれない、と思って不安になる。どんなに悲しくても、面白いことがあれば笑ってしまうからだ。どんなに悲しくても、美味しいものを食べたら嬉しくなるし、だんだん心が上向きになる。そういう、情の薄さが怖い。昨日は悲しいと言っていたくせに、今日はケロリとしているじゃないか、とそんな風に思われそうで、悲しめない。

 本当に悲しいときはどうしたらいいのだろう。短い時間考えただけでは、答えは得られなかった。

仲間を求めて

 何かを生み出すには狂気が必要だ、という結論に満足して昨日はぐっすり眠れた。しかし、夜が明けて早速、自分に疑いの目を向け始めた。これまで、自分に狂気が足りなかっただろうか。変態ではなかったのだろうか。いや、そんなことはないだろう。いくらかは既に、変態だったはずだ。もしかすると、変態であるだけでは足りないのではないだろうか。

 僕は、何かに向き合おうと考えるときほど心の内側へ、より内側へと探りをいれる。じっと暗闇を見つめて、そこにあるものが何であるかを探し歩く。それは、深海に一人、宝を探して素潜りしているようなものだ。滅多なことでは宝は見つからない。見つかったとしても鍵がかかっている。試行錯誤の末に、ようやく宝箱が開く。よくやく開いた箱から視線を切ると、あたりには深い闇が広がっている。

 ちょっと大げさだったかもしれない。ともかく、そういうイメージだ。そしてそれはとても効率が悪い。終わりなくそれを続けることを望んでいるなら、そのままでもいいかもしれない。でも、いつまでも今のままでいたいとは思わない。もっとすごいことを探すために、やり方を変えるべき時が近づいているのかもしれない。

 いや、何もこの記事を書くための話に限ったことではない。「もの書きを生業にしたいなら、どうするか?」という話でも同じことが言える。もっと良いアイデアを、もっと良い文章で、もっと手早く、作るにはどうしたらいいのか。いくつかの本を読んで勉強したことはある。けれど試してないこともある。それは、仲間を探し集めることだ。

 ごく当たり前のことだけれど、そういう事に思い至らなかった。なぜなら、どうせ無理だと思っていたからだ。多くの人は、深海の宝を面白がるけれど、自分で探そうとはしないだろう。勝手にそう考え諦めていた。けれど実際に「宝を探しに行かないか?」と誘ったことはなかった。そういうことかもしれない。あるいは、既に先を行く人を訪ねてもいいかもしれない。自分から動くべきときなのかもしれない。

ちょうどいい狂気

 毎日こうして何かを書いていると、ろくでもないことしか思いつかなくなってくる。最初は「毎日三十分で終わらせて、スマートに生活してやるぜ」などと根拠のない自信を持っていたが、あっさり打ち砕かれた。何を書いてもつまらない文章がだらだら続くだけになってしまう。だんだん気弱になって「こんな不毛なことはやめてしまったほうが、いっその事気が楽なのに」と度々そう考える。けれど、同時にこの苦しみを楽しみに変えるような変態さが必要なのではないだろうか、とも考える。

 「変態」というと、露出狂とかそういう迷惑な趣味を持つ人を指す人を思い浮かべるかもしれない。しかし、決して悪い意味とは限らない。たとえば「あの人は変態的にプログラミングができる」という表現は、少しひねった言い方ではあるが、その人が優秀なプログラマであることを意味している。ちょっと古いけれど「釣りキチ」とか「空手バカ」とかいう言い方がある。これらは「その人が群を抜いて(異常と感じられるほど)ある分野に関心を抱いている」ということを表している。

 そういう変態になりたい、と思う。今ここでくじけて、文章を書くのをやめたら、ただの一般人に過ぎない。何かを生み出すことなく埋もれていくだろうし、別にそれが普通だと感じるだろう。でも、それに納得しないくらいの異常さを自分の中から引き出したい。妄執でも何でもいいので、何かを継続して成果と自信を手に入れたい。求めすぎるあまり、壊れてしまうかもしれない。でも、スポーツと違って、文章を書くことは身体を痛めない。だから、苦しみながらでも書いていけるだろう。

 普通のままでは、たぶんもう取り返せない年齢になっている。だからそれはもう狂ったように前を見なければならない。しかしけれど、本当に狂ってしまうのは恐ろしい。無謀な借金をしたり、人を傷つけたり、すべてを顧みないような生き方をするつもりはない。ちょうどいい狂気を目指そう。破滅を歩まないように、緩やかに。けれど常道からは踏み外して。

どうにか新社会人編

まいど。

 就職したての頃は、とにかくびくびくしていたと思う。ここで失敗したら、人間失格の烙印を押されてしまうのだと思って、とにかく慎重にやろうと決めていた。プログラミングに関する業務はぼちぼちうまく行ったが、それ以外の雑用が大変だった。朝礼の司会、電話対応、弁当の注文、行事の後片付けや前準備、それから幹事。

 はじめは何をしても膝が震えるし、手も震える、声も震える。そういう自分の傾向を知っていたので、予め一人でぶつぶつと朝礼の練習をしたり、電話の練習をしたりした。そんなふうにシミュレーションしている姿はわりと間抜けだったかもしれないが、そのかいあって、大きなミスなくこなすことができた。

 とはいえ、練習できないこともある。それは何かというと、飲み会の幹事だ。さっぱりわからない。相談できる友達もいない。ググったりしてみるがよくわからないし、意識高い系のサイトが多くて妙に腹が立つ。とてつもなく情けない気持ちになってくる。「一体俺は何をしているんだ…」仕方がないので、一番優しそうな先輩に尋ねてみた。その時のことはよく覚えている。

 僕はかなり長い前置きをした。だいたいこんな感じだったと思う「本当に仕事とは関係なくて、こんなことを聞くのは場違いかもしれず、本当に情けない話で申し訳ないんですけども…幹事ってどうすればいいんですか?」その場にいた皆が笑った。そして「それは誰にでも聞いていいし、誰でも答えてくれるはずだから…」と教えてくれた。

 それであっさり解決すればよかったのだけれど、飲み会というのは自分にとって魔境だ。先輩に店を選んでもらうところまではこぎつけたが、そこからどうするのかは指南されなかった。ぶっつけ本番に挑んでみたところ、まず注文の仕方がわからない。いや、正確にはわかるが、どれを頼めばいいかわからない。メニューが多すぎる。今なら、とりあえず刺身盛りとか串盛りみたいな、いろいろ食べれるやつを選べばいいとか、なんとなくわかるけどとにかく当時はよくわからなかった。だからよくわからない感じでランダムに頼んだら料理が足りなくて困った。あとざわざわしすぎて声が通らないとか。いろいろとにかく疲れた。

 その後もさらにいろいろな謎の作法があることを知った。注文とりやすいように席は入り口に近い方に座るとか。グラスが空きそうな人に声をかけて次の飲み物を聞いておくとか。空になった皿は片付けやすいように集めておくとか。そういう気配りが存在することを知って目眩がした。やりたくない。できそうもない。本当に、飲み屋についてはいろいろ文句を言いたい。もっとわかりやすくしろといいたい。生ビールの「生」という無意味な言葉を消せ。水割りとかロックとか説明しろ。メニュー見やすくしろ。謎のレイアウトやめろ。単品は別の冊子にしろ。とかね。

 幹事は何回かやったけど、どれもしんどかった。ピザを頼むのですらしんどかった。皆野菜を食べるのか? サイズはどれくらいだ? とかそんなことで悩んだりとか。頼んだのに届かなくてイライラしたりとか。適当にビール注文してたらキリン淡麗生買ってこいとか言われたりとか。とにかくよくわからないことだらけだ。今になって思うと、全部どうでもいい。

 あとは忘年会もやった。そのときは出し物を要求されたのでこれも悩んだ。同期は僕と同じくらい社会に慣れてなくて頭の回らないメンバーだったので、僕がひたすらググった。そして一番無難そうでお金もかからない、ジェスチャーゲームにした。やっつけでうまくいくはずがないと思ったので、司会原稿を作ってひとりでシミュレーションした。今思うとバカバカしい。

 他にもいろいろあったはずだけど、半分くらい幹事についての愚痴になってしまった。僕は必死にそれを仕事として取り組んだけれど、楽しみながらそれをこなせる人もいるだろう。本当に感服する。と同時に、そのような方々にはぜひ、進んで自ら幹事を行ってほしい。そう祈る。

海月水族館へ

 悲しいことがあると知らず知らずのうちに海月水族館へ足が向く。人工海岸を歩いた先にある、そのちっぽけな建物には、ほとんど何もないけれど、名前の通り海月だけはいる。

「よくきたね。外は寒かっただろう」

 重たい扉を開けると、それこそ海月のような髭をたくわえた毛むくじゃらの館長が出迎えた。私は軽い会釈で答える。私が喋らない人間だと知っている館長は、静かに穏やかに頷いた。わずかばかりの入館料を支払うと、そっと使い捨ての懐炉を譲ってくれた。

「暖房をかけるお金がないのでね」

 そう言って、いたずらっぽく微笑んだ。私は感謝の言葉を伝えて、その場を離れた。

 館内は、あまりにも閑散としていた。誰一人としてすれ違うことはない。いつものことだが、学芸員も飼育員も見当たらなかった。すぐに幅二メートルほどの水槽に行き当たる。大きな水槽に似つかわしくない、小さなミズクラゲがただ七匹そこにいた。乳白色の柔らかそうな身体に、か細いレースの糸を垂らしながら優雅に泳いでいる。蛍光灯に照らされ光を透かすその姿は、とても神聖なものに見えた。

 水を循環させるエアレーションの低音だけが静かに流れていく。暗いベンチに腰掛けて、私は背景の一部になった。

 脳を持たないこの生物は、何を考えて生きているのだろう。彼らには天も地もない。ただ流れに身を任せている。七匹は無関係にすれ違い、無秩序に漂っている。そう、それを眺めていると、くだらないことで悩むのは止そうと思えるのだ。だが、その経験則は虚しく打ち破られた。心のざわめきが止まらない。ただただ胸が苦しい。七匹がなんの言葉もかけてくれないことを恨めしく思うほど、自分のことしか考えられない。

 気がつくと指先が凍るように冷え切っている。息を吐きかけたぐらいでは、気休めにしかならなかった。なるほど、たしかに冷える。ポケットに手を突っ込むと、暖かくなっていた懐炉に指先が触れた。私はそれを、そっと握りしめた。じわりと熱が伝わってくる。そうだ。なんの支えもない人間は、こうして、ささやかなものに頼らなければならないのだ。