少し切実な僕の創作の動機

 「創作における間違った信仰」という日記を読んだ。創作のモチベーションは様々で、ちやほやされたい、という欲望があるのは自然だと思う。ただ、それが動機の大半だと考えるのは少々悲観的なように思えた。自分の場合、ちやほやされたい気持ちはあるけれど、実際に褒めてもらったことなんてほとんどない。作っては潰す。作りかけて投げる。そんなことがずっと続いているのに、未だにやめられない。

 僕は、自分がゲームや物語を作ろうとする理由について考えた。それには、僕の過去についてのいくらかの前置きが必要になる。

 小さい頃から、家にいて暇な時間を見つけると、なんとはなしにゲームをしてきた。それは今でもたいして変わっていない。それは周りと比べると少し異質だった。度々、何か別のことをするべきなんじゃないかと不安になることがあった。だけど、ゲームをしている時間が一番リラックスできて、楽に、スムーズに始めることができるから、止めなかった。少しばかりゲームを作ったこともあったが、ほんとうになんとなく作っただけだった。

 転機になったのは就職活動だ。そこでは、これまで何をしてきたのか、これからどうしたいのかが問われた。僕はただゲームを遊んできただけで、人と接するのは苦手だ。だから割と素直にそういう話をした。「そういう人が欲しい会社なんて、あると思うか?」そんなことを言われたと思う。ひどく絶望的に思えた。

 僕はそこで、素晴らしい言い訳に出会った。「創作者には、あらゆる想像力が必要だ。あらゆる経験が作品の糧になる」たいした見聞も持たない僕がなぜ、そんな言葉に光明を見出したのかというと、この言葉からは「どんな過去の経験であっても、無駄なものはない」という結論が導かれるからだ。「僕は創作のためにゲームをしてきた、そのために研鑽し見聞を広めたいと思っている」そのような前向きな自分を作り出すことができた。都合の良いことに、文章(論文)を書くための訓練をしてきたし、プログラミングの勉強もまたそうだったから、ものを作るためのタネと、手段を持ち合わせていたことになる。

 僕の創作のモチベーションとは、それだ。無為に過ごしてきたように思える時間が、無駄ではなかったことを証明するための手段。それが創作だといえる。

1.ゲームをすることは無駄ではない。
2.なぜならその間に自分の中に積み重なるものがある。
3.その証拠に、僕はこんな素晴らしい物を作ることができる!

 そういう論法だ。正直なところ、現実はより曖昧で複雑だ。こんな方程式を作り出す前から、ゲームを作りたいと思ったこともあるし、実際に作っていた。完成しないゲームであっても、物語であっても、そこに自分が見つけたものの姿を見ることができて、少しだけ楽しい。

 もう少し時間を置いてみれば、別の動機を見つけることもできるだろう。けれどさしあたり今の僕がゲームを作る理由は、ちやほやされたいという欲望よりも、もう少し切実な部分が大きいはずだと信じている。