趣味と大人

 急に気温が上がってきた。窓を開けると遠ざかる電車の音が聞こえる。今月はほぼ長袖で過ごしてきたけど、さすがに、もうそれも終わりかもしれない。世間ではワールドカップがあったり、都議会でのヤジが問題になったりしているけれど、職場でも家でも、ほぼそういう話が出てこない。僕が世間と隔絶しているのか、それとも多様な社会になってきたのか、どちらかはわからないけれども、平和なことだ。

 何か話題はないものかと探してみたけれど、マンガやアニメ、ゲームのことしか思いつかない。小さい頃から、まったく変化していないのがわかって、少しさみしくなる。僕は今年で二十八になったが、大人らしいところは皆無だと自覚している。とは言えもう子どもという年齢でもない。面倒くさい年齢なのだ。

 叔父さんのことを思い出す。彼はいわゆる大人らしい大人に見える。マンガもアニメもゲームも興味がなく、時代小説と将棋が趣味だ。保険会社で何十年も働いていて、投資信託みたいなことも請け負っているそうだ。オーストラリアドルの相場を気にしていた。絵に描いたような大人の姿だ。彼らは、どこで子供の頃好きだったものを手放したのだろう? 世間体を気にしてのことだろうか。仕事や家事で時間がなくなったからだろうか。別の楽しみを得たからだろうか。それとも、もっと大切にすべきことを見つけたからだろうか。

 大人の趣味も色々ある。さっき床屋に行った時、やたら大きな声で話す老人がいた。店に入ってくるなり、店主に向かって野球の話をし始めた。投手の何とかがいいとか、どこのチームが勝ったとか、監督がどうこうしたとか。訛りがひどく、わずかにしか聞き取れなかった。店主は愛想よく返していたが、迷惑そうに見えた。僕がカットを終えて、料金を支払っている時もしゃべり続けていた。野球中継が好きで、それ以外にすることがないのだろう。

 マンガやアニメを見て、ゲームをするということは、基本的には遊ぶ時間だ。ストレスはほとんどないし、そう頭をつかうことでもない。だから、不安を感じるのかもしれない。知識を取り込むことでもなく、訓練になることでもない。身体に良いことでもない。「楽しいからやる」という将来性のなさ、手軽さが子供っぽいのかもしれない。それを反転させるには、生み出すことに力を注ぐのはどうだろうか? たとえばマンガを描くということ、物語を書くということ、ゲームを作るということ。それらは頭を使う。特別な技術を要する。いつまでも子供でいないために、少し考えてみたい。