「楽園追放」と人間らしさについて少し

 窓を開けていると学生たちのはしゃぐ声が聞こえる。元気が良いなと見下ろすことができるのは、大人の特権だ。社会人になってから、卒業も進級もなく、一定の速度で生きている。どちらも幸せなことだと思う。

 楽園追放というSF映画を見た。映画自体の面白さはさておき、なんとなく人工知能について思い出したことを、少しだけ書いておこうと思う。

 人ではないものに知能を与えるということは、機械に人間らしさを与えることなのだと思っていた。恥ずかしいことだが、錬金術のような神秘に満ちた学問なのだと思っていた。人間らしい発想、ひらめき、曖昧さ、柔軟性、飛躍、そういった表現しがたいものこそが知能であるように思えた。しかし勉強してみると、そのような思想ではなく、実利のある工学的解決を目指す分野が主流だった。言い換えると、結果が役に立つならば、人間らしさなど備えている必要はない、という方針で研究を進めるのが普通だった。

 問題はデータと解の条件によって表現される。数式とアルゴリズムによって、解決される。教わった知識のほとんどは、いかなるアルゴリズムを用いるか、いかなるデータ構造を用いるかということだった。それなら教養の数学でもやっているほうが、よっぽど知的で面白いんじゃないだろうかと思った。

 当時はそんな風に思っていたけれど、そもそも人間らしさというのは何なのだろう。楽園追放の作中に出てくるロボット、フロンティアセッターはとても人間らしく見えた。ひとつには、完璧に会話ができていた事があると思う。今の人工知能でも、まともな会話はほとんどできない。何か悩みを相談して解決するだとか、好きな音楽について語るとかはもちろんできないし、もっと簡単に、最近あった出来事を話し合うとか、自己紹介を聞いて受け答えするとか、そういったこともできないだろう。

 現代のコンピュータが会話できないのは、彼らに経験というものが不足しているからだと思う。人の会話には背景とか文脈とかがあるけれど、コンピュータにはそれがない。逆に言うと、人間は背景とか文脈とか言った部分に情報を溜め込んでいて、それを出し入れしているから、色々な話題に対して「似たようなことが合った」「共感できる」「こうしたらうまくいくかもしれない」「もしそうだとしたらどんなことが起こるだろうか?」とかいろんな反応が返せるのだと思う。こういった文脈とか背景とかいうものは、データとして表現しがたい。また、経験から感情を導き出したりする技術もない。

 フロンティアセッターにそれができていたのは、自身の開発者たちと会話しながら過ごしてきたからだろう。また彼は、何百年という時間をかけて、作業用ロボットを作成したり、燃料を蓄えるために取引をしたりして、外宇宙探索の準備をしていた。その過程で、色々なアクシデントを経験してきたのだろう。だから、会話をできるだけの下地がある。

 さて、こうして書いてみたわけだが、ここまでの文章は、自分の経験や背景から引っ張り出してきた話題なわけで、まさに人間らしさの要因を備えているはずだ。他の人にどう見えているかわからないけれど、俺は人間らしいのだと感じられてささやかな満足感がある。