人生とプラスとマイナス

 三十歳になって、酒を飲んだあと、いま生きている理由や、何を望みながら暮らすだろうということを考えた。何のために生きるのだろう。家族のため。血統のため。会社のため。社会のため。国のため。人類のため。誇りのため。趣味のため。日常の喜びのため。どれもしっくり来るものはない。

 執着のあるものについて考えると、僕はゲームが好きだ。人生の半分くらいの時間をそれに費やしてきた。しかし、ゲームのために生きているとは考えていない。面倒でゲームをしたくないと思うこともある。仮に、ゲームが遊べなくなったとしたら残念だが、絶望するほどでもない。

 直感的には、生きる目的はないように感じる。目的がなくても、生きているだけで、それなりの楽しみがある。大きな苦しみが降り掛かってくることもあるけれど、プラスとマイナスの総量が、ゼロ以下になっていると感じたことはない。実は、そこそこ幸福なのかもしれない。

 そんなことから、話は少し飛んで、プラスとマイナスのことを考えた。

 人は、プラスになる事は進んでやる。マイナスになることは避ける。たとえば、美味しいご飯を食べて満腹になることや、漫画を読んで楽しむこと、これらは誰もが進んでやるプラスの行動である。マイナスの行動とは、たとえば転んで怪我をする、溝に落ちて靴がずぶ濡れになる、といったことである。このような行動を自ら進んでやる人はいない。

 ところが、現実の人間は、ある種のマイナスの行動については頻繁に選択している。たとえば、会社に向かうため満員電車に乗る。暑苦しい、臭い、窮屈でろくなことがない。明らかなマイナス行動だが、それでも多くの人は満員電車に乗り込む。

 それは、将来を予測することができるからだ。電車に乗らなかったなら仕事に出れず、上司から叱られるだろう。信頼を失い、職を失うかもしれない。それは満員電車に乗ることよりも、大きなマイナスである。

 予測することは、将来のプラスを取るのにも役立つ。たとえば、魚釣りは池にいる全ての魚を捕まえない。なぜなら、生き残った魚が繁殖して、次に来たときも魚が取れると予測しているからだ。もし、全部の魚を捕まえてしまったら、一時的に大きなプラスが得られる代わりに、将来釣れる量はゼロになる。

 予測は外れることもある。繁殖できるように残しておいた魚が、他の漁師に根こそぎ釣り上げられてしまうかもしれないし、病気にかかって全滅してしまうかもしれない。

 それさえも、経験すれば予測できるようになる。他人が荒らさないように予め柵を立てることができる。魚が病気になってないか予防の検査することができる。コストは大きくなっていくが、未来のマイナスに備えて対策を立てられる。どれくらいコストを払うかは、マイナスが起こる可能性の高さ、量によって変わっていくだろう。

 マイナスを減らし、プラスを増やすには、予測すること、比較することが大切なのだろう。どの選択肢が、どの程度のプラスを、どの程度の確率で生み出すのか。そこから一番良い物を選ぶ。外れても次の手を打つ。こんなことを考えるのは、最近カードゲームをしているせいか。