余計なお世話

 休日に早く目が覚めたけれど、なにもすることがなくて、ぼんやりしていた。座椅子の上で毛布にくるまっていると、睡魔がやってくる。テレビの音が遠い。これは昼寝すべきだと思った。雀のさえずりに、斜めに差し込む日差し。よれた毛布を直して布団に潜り込むと、すぐさま眠りに落ちた。

 「余計なお世話」という言葉がある。たとえば、自分が太っていること気にしていて、色々試したけどどうしても直せない、そんなときに事情を知らない知人から痩せたほうが良いよ、等と指摘されたりするのは、余計なお世話だ。これまでの事情や、自分の趣味嗜好を知らない人物が、知ったふうな口を聞くのは、実に腹ただしい。親しい人から余計なお世話をされて、失望することもある。

 僕自身もよく、余計なお世話だと感じることがある。つい先日もコードレビューの際に、嫌な気分になった。自分が苦労して書いたプログラムの欠点を暴き出される。その批判が正しいかどうかよりも、ただ自分の努力を蔑ろにされた気がして、ただただ不愉快になる。文章だけでやりとりしているときは、なおさらだ。

 だが、苦労して書いたプログラムに限って、ろくでもないプログラムであることも多い。試行錯誤した痕跡が残っていて、コンピュータに余計なことをさせていたり、遠回りをさせていたりするからだ。レビュアーのしょうもない小言や首を傾げるような指摘が、見落としていた核心を突いていることもある。

 だから、余計なお世話だと思ったときこそ、注意深くならなければならない。拒絶の言葉を吐き捨ててシャッターを下ろすのではなく、高ぶった感情が静まるのをじっと待つ。それから、相手の立場になってみる。大抵の場合、相手の真意は挑発でも皮肉でもなく、単なる親切心だ。そういう人を冷たく突き放すのは、大人げないことだ。

 ここまで考えていて、気づくことがある。余計なお世話だと思ったことは多々あるが、余計なお世話をしてしまった、加害者になってしまった、と感じるのは稀だということだ。それはたぶん、気づいていないだけなのだろう。何気ない場面で、助言のつもりで、人を傷つけている。罪深いことだ。