背理法と産婆術

 何日も雪が続いたが、ここは雪国ではない。積もった雪が日をまたぐことは稀だし、三日もすればかすかなものになる。いまでは、降り注ぐ雪の粒も、数えるほどしかない。花壇を見れば、葉牡丹が咲いている。淡いクリーム色と濃い紫のコントラストは、どこか大人びた印象があった。

 数学には、背理法というとても有名な証明方法がある。ある仮定から出発して矛盾へと導くことで、その仮定が成立しないことを示すものである。これは、とても意地悪な証明方法だと思う。なぜかというと「あんたの言ってることはたぶん間違いだけど、まあ正しいと仮定して話を進めてみようじゃないか」という文脈で使えるからだ。たとえば、ミステリーでは次のような問答をよく見かける。

(容疑者)「私は殺していない!」

(刑事)「ああそうかい。でも、そうだとしたら、誰が殺したっていうんだい?」

(容疑者)「そんなのは知らない!」

(刑事)「知らないって言ってもねえ。あの時間、アリバイが無かったのは、あんただけなんだよ」

 「容疑者が殺人を犯していない」と仮定すると、殺人可能な人物が存在しなくなる。しかし、被害者は殺された。これは矛盾している。つまり「容疑者が殺人を犯していない」という仮定が間違っているのだ。そういう論法である。やっぱり、意地悪な感じがしないだろうか。

 証明法ではなく、議論で相手を説得する方法として、産婆術というものがある。これは、議論を戦わせている時に、自分の主張を一旦引っ込めて、相手の主張を思うとおり喋らせるというものだ。喋りがなめらかになるように、出産に立ち会う産婆のように優しく接する。相槌を打ち、質問をなげかけ、強く否定しない。こうすることで、相手の主張の妥当性を探るものだが、見方を変えると相手が自滅するのを待つ意地悪な作戦でもある。たとえば、会社でベテランと新人が下のような会話をするかもしれない。

(新人)「電話番しろって言われたんですけど、事務員さんに任せるべきですよね」

(ベテラン)「うん? まあ、そうかもしれないね」

(新人)「電話慣れしてるし敬語も上手だから、印象も良いじゃないですか」

(ベテラン)「言えてる。でも、事務員さんも席を立つことがあるんじゃない?」

(新人)「それなら、次に電話慣れしている人、二番手がいればいいんですよ」

(ベテラン)「そうだね。とはいえ、二番手だって、トイレとかありえるだろう?」

(新人)「だったら、三番手も決めておけば安全でしょう?」

(ベテラン)「基本的には、そうだと思うけど、皆でランチに出かけちゃうかも」

(新人)「うーん・・・」

 結局、ベテランとしては、新人に電話番を任せたいのだが、直接的に「お前がやれ」とは言っていない。粘り強く議論に付き合っているように見える。しかしよく見ると、新人の主張をほとんど受け入れていない。その上、新人が電話番をやるべき理由を、一つも述べていない。結論ありきで、相手が折れるのを待っている。そう捉えると、意地悪なように見えないだろうか。

 どちらも「ぐうの音も出ない状態にする」技だと自分は考えている。それは、決して相手に良い印象を与えるものではない。知らず知らず、こういう技を使って相手をねじ伏せようとしてしまうことがある。気をつけよう。