天の邪鬼のいなし方

 あるときを境に寒さは消えて、桃と桜と梅の花が見られるようになった。日当たりの良い樹には若葉が出はじめている。畑の緑は蘇り、歩けば野鳥にも出くわす。何十回も繰り返してきた春だ。もう新鮮味など無いはずなのに、何かが始まろうとする空気は悪くないと感じる。

 自分が子供の頃、やりたくない事があるとき、その場で屁理屈をこねて反論していたように思う。天の邪鬼というやつだ。なぜ、そんなことになるのだろうか。そして、どのようにすれば解決するのだろうか。わかりやすくするために、いくらか脚色を加えて、過去の自分を思い出してみよう。

 小学三年生くらいのころ、両親は僕に向かって「塾に行ってみないか」と提案してきた。僕は、言いようのない恐怖を感じる。それは「塾という未知の場所に一人で行くのが怖い」という感情だ。しかし、強がりや意地が働いて、自分ではその感情を分析できない。

 なんとかして行きたくない理由をひねり出す。「本当にその塾でいいのか。詐欺じゃないのか」「塾に行くくらいなら自分で勉強する」「塾に行かなくてもテストで点は取れる」「塾でやることはどうせ学校でやるのと同じだ」と思いつく限り並べ立てて抵抗する。うんざりした両親は「天の邪鬼はやめて、とにかく言うことを聞きなさい」と一言。あとは嫌がる僕を車に押し込み、引きずるようにして塾まで連れて行く。そこで場面は終わりだ。その後泣いて暴れたか、従順に塾に通ったかはわからない。

 上の例から言えることは、天の邪鬼が強引な理由付けをするとき、それは隠れた本心があるということだ。それは自分の弱みを守るためかもしれないし、誰かを庇ってそうしているのかもしれない。そこには鍵がかかっている。特に、子供の場合は内面が見えない。

 そんなとき両親がやるべきことは、なんだろうか。試しに、屁理屈に付き合ってやるのが良いかもしれない。上の例なら、本当にその塾で良いことを証明する。他の塾と比較検討し、学校へ行くよりも優れた実績があるか調べる。加えて、テストの点には現れないような学力を身につけることの大切さを説く。こうして即席の理由をひとつひとつ潰していく。そうやって答えが出るまで粘り強く話をする。

 上のやり方は誠実ではあるけれど、あまり良いやり方ではないだろう。とてつもない時間がかかる。もっといいやり方は「いいから試しにやってみよう」と誘うことだ。他の塾より効率が悪いかも知れないし、行っても行かなくても成績に影響はないかもしれない。お金はかかるし、送迎が大変で迷惑をかけるかもしれない。成績が伸びなくて嫌な思いをするかも知れない。それでも「まあ、別にいいじゃん」と。だめだったら辞めればいいのだから。理論武装を解除するよりも、許す、どうでもよくさせるというやり方。ここまで譲歩されたら「それでも怖いからやだ」という本音を引きずり出せたかもしれない。それが、天の邪鬼のいなし方だ。

 こんな話をせずとも無理やり塾に引っ張っていったら、すぐに友達ができて全てがうまく行った、なんてことも起こりうるだろう。たぶん世の中にはそういう例もあふれている。だから子供相手には「とにかく強引にやる」というのが悪くないやり方なのかも知れない。それでも未来のことを思うなら、天の邪鬼をいなして、即席の理由に惑わされず、自分の感情を探る体験をして欲しいとは思う。