感情を分析しろ→しなくてもいい

 12月は一人でアドベントカレンダーをやるつもりだ。 https://adventar.org/calendars/3628 どうせ記事はここに書くので、上のURLはなんの意味もない。モノクロの例のアイコンが並んでいる姿はなかなか不気味である。

 なぜそんなことをしようと思ったのかというと、一つは実験だ。最近ブログを書くときに時間をかけすぎる傾向がある。練りに練ったものを送り出そうとして、完結しないままお蔵入りするのだ。自分の過去を振り返ると、ブログ記事に限らず、いろんな創作物がそのような傾向にある。これは良くないことのように思われるから、たとえ内容が薄く、推敲の甘い文章であっても世に放り出してみるのはどうか、と思ったのだ。考えをすばやく書き出していく瞬発力が鍛えられるに違いない。もう一つは宣伝だ。何か転職活動をしようとか、文筆業で食っていこうとか考えたときに、そういうことができます。という実績として役立つかもしれないと考えた。

 宣伝はさておき、書こうと思ったまま、まとめられていないことについて少し話をしよう。それは、感情の分析に関することだ。たとえば、怒りを分析しよう。あなたが書いた傑作プログラムを見た上司が「そのコード、ひどいもんだ。どれ、俺に貸してみなよ」と言ったとしよう。あなたは思うはずだ。「ふざけるな。俺がどのような試行錯誤と熟慮の末にこれを書き上げたのかも知らないくせに、勝手なことを言うんじゃねえ」その上で、もしそれを口に出したとしたら、二人は殴り合いの喧嘩になるだろう。そういうときに、感情を分析する力があれば、争いが生まれずに済む。

 すぐさま殴り合いを始める前に、怒りを感じたその瞬間に自らに問いかける。「なぜこんなにも腹が立つのか?」それは、自分が長い時間を費やして、どうにか動くところまでこぎつけたプログラムを貶されたからだ。決して良いプログラムではないにしても、努力の末に書き上げたものだ。だからそれを否定されたくない。こうして感情の原因を知ることで、怒りを鎮めることができる。そうすれば、あとは上司がプログラムの品質を上げてくれる、という良い結果だけが残るだろう。

 こんな風に、感情を分析するということは、良くない感情を鎮めるのにとても役立つ。嬉しい感情を分析すれば、自分の好む事柄を見つけるのに役立つだろう。ごく当たり前のようであるが、なかなかそれを意識的にするのは難しい。だから僕の場合は「不満です」とか「腹が立ちます」みたいなことをまず表明することにした。「理由は今から考えます」みたいにしてあとづけする。そうすれば、相手をびっくりさせてしまうかもしれないが、殴り合いをせずに済むし、アドバイスも受けられる。

 ここまでのことを「すごくいいことを発見したな」と思っていたことのだが、最近、それが少し逆転し始めた。感情を分析すればいいというものではない。分析しなくていい感情は、存在する。それが何かと言うと、たとえば「友達が結婚したのが悲しい」という気持ち。これを分析してみるなら「友達が結婚したことによって、その友達と過ごせる時間が減ってしまうだろう」という推測による悲しみ。「自分が結婚できない中で先を越されてしまった」という悲しみ。「結婚できるはずないとある意味見下していた友達が結婚できてしまった」という悲しみ。とにかく、いろいろと好ましくない考え方が溢れ出てくる。自分のくだらなさとか、いたらなさというのが湧き水のように染み出してくる。なんだそれは。意味あるのか。意味なくないか。というのが逆転の始まりだ。

 そういう風に、己の醜さがあらわになるだけの自己分析は、たぶんやるべきでない。わからないままでいい。実際、わからないままでいいことは、たくさんある。たとえば、C = A or B という論理式について、 A が真なら、B の真偽を問わず C は真となる。どんなに複雑な式であっても、それは同じだ。X = A and (B or (C and D) or E) とかの難しそうな式でも A が偽なら、ほかの B,C,D,E にかかわらず X は偽になる。わからないままでも、話が進められる。わからないままでも、わかるところだけ式を変形できる。そういう論理的な性質が、感情の分析にも使えるのではないだろうか。

 自分のことを細分化して細分化して、分析して明らかにしようといつも考えてきた。DNA解析みたいに。けれども、DNAは G C T A の四種類の塩基がただひたすら並んでいるだけだ。そこから得られる知見もあるだろうが、そこからは決して得られない知見もある。分解せずにそのままでいいじゃないか。辛いとか悲しいとか、とりあえずそう感じるままにしておいて、原因の解決も、改善も何も考えずに、ただ心踊るような音楽と、美味しい食べ物でも用意すればいいじゃないか。