くすぶる夢

 「小説書くって言ってたけどどうなったの?」と聞かれた。素晴らしい指摘だ。一言で答えるなら「書いてない」ということになるが、書いてないことから気づくことがあったので、まとめてみよう。

 夢というのは二つに分かれるような気がしている。一つははじける夢で、もう一つはくすぶる夢。

 はじける夢はとても簡単で、たとえばプロ野球選手になりたいとか、棋士になりたいとか、そういう感じのもの。成長していくうちに無理だということがわかるもの。年齢的な限界があるもの。取り組んでいたとしても「ああこれで終わりか」と感じるような終息するときがかならず来る。どんなに頑張っていても、ある時シャボン玉がはじけるように全てがなくなる。それからは別の道を歩まざるをえなくなる。

 一方のくすぶる夢は、漫画家になりたいとか、小説書きたいとか、弾き語りしたいとか、そういう感じのもの。いつまで、という終わりが不明確で、年齢的な限界がないもの。必死にやっていようと、気まぐれにやっていようと、終わりは来ない。うまくいかなくて、あるいは時間が足りなくて離れたとしても、燃えさしがずっと残り続ける。

 よくいる売れないシンガーソングライターとか、くすぶる夢の代表選手だろう。もしかしたら売れるかもしれない。あるいは、好きで続けていてやめられない。人々に認められるだけの作品を打ち出すことはできないけれど、何か沼にはまったように、そこに居続ける。

 これは、不毛なことなのだろうか。全力で打ち込むことなく、ただずるずると同じことを続けているのは。完全燃焼して、砕け散るほうがまだいいのだろうか。砕け散った後大成しないとわかっていて、続けるのは許されるだろうか。いや、許す許さないとか、良し悪しなんてものはない。本人がよければそれでいい。というのが常識的な判断だ。うまくいくかどうかよりも、楽しめるかどうかのほうが大事だ。

 でも、そんな当たり前の答えに着地しても、ちっとも嬉しくない。もっと心を奮わせるような答えはないか。そう考えてすぐ思い浮かぶのがラブライブの歌だ。「勇気はどこに?君の胸に!」という歌でうたっている。

何度だって追いかけようよ 負けないで 失敗なんて誰でもあるよ 夢は消えない 夢は消えない 何度だって追いかけようよ 負けないで だって今日は 今日で だって目覚めたら 違う朝だよ

(三十分ほど曲を聞く)

 聞いてると頑張ろうと思える。楽しめるかどうかじゃなくて、くすぶる夢であっても、それを追いかけることがとても素晴らしいことのように思える。そして、なんでそうするのか? それは「だって、目覚めたら違う朝だから」すげーわけわからん。だがそれがいい。力が湧いてくる。あとユメノトビラとかも聞いとけばおk。