Yes/No で答える能力

 昔、後輩に仕事を教えていたときのことを思い出した。とても反省していることがある。それは、何でもかんでも改善しろと指摘したことだ。少しでも目につくことがあれば小言を言っていた。特によく言ったのは「それは僕の知りたいことじゃない」というセリフだ。

 たとえば、毎日の進捗報告で「頼んだ仕事はできましたか?」と尋ねる。その時、後輩は「○○がわからなくて、調べていました。△△というライブラリを使えばそれができそうだと思ったので、それを使おうとしています」みたいに答える。僕はそういうときに「それは僕の知りたいことじゃないです」と突き放した。もっと言うなら「頼んだ仕事、できてませんよね?」とわざわざ屈辱を与えるような聞き方をした。

 その時、言いたかったことは「最初の質問に Yes か No で答えてくれ。問に対して的確に答える癖をつけてくれ」ということだ。それなのに、棘のある言い方をしてしまったのは本当に反省している。「手順を踏んで話すということを身に着けてないことを恥じなさい。猛省して努力しなさい」とでも考えていたのだと思う。今考えると、何様のつもりだという気になる。

 僕はワガママなことに、当時「正しければどんなことでも言ってよいし、言うべきである」という考え方を抱いていた。レジスタンスのように、正しくないことを批判するのは格好良いと思っていた。自分では、信念をもって動いているつもりだったが、傍から見れば、空気を読まない迷惑な男だったろう。

 当時僕は「Yes か No で答えるということは初歩的なことであり、仕事をする上で必須の能力だ」と思っていた。けれど、実際にはそんなことはない。自分の両親はふたりとも、質問に対して Yes か No で答える能力は持っていないし、仕事のできる人でもそれができない人はいる。そう、Yes か No で答えるという能力は、初歩的でもないし、仕事をする上で必須の能力でもなかったのだ。

 Yes か No で答える能力があれば、スムーズに議論が進む。なければどうなるか。議論は少し混乱しながら進む。けれど、質問者が問いかけを増やせばカバーできる。たとえば上に書いた後輩との会話では「念の為一度確認しておきたいんですが、頼んだ仕事はまだ途中で終わっていないということですよね?」と確認をすればよかった。

 そもそも初歩的かどうか、仕事をする上で必須かどうか、ということを差し置いても、できていないことを詰る必要はなかった。「実は Yes/No で答える能力というのがあって、これがあると一目置かれる人になれるよ」と教えてあげるだけでよかった。そう思って反省している。