断捨離と疲弊

 退職を期に、家を引き払うことが決まった。引越し先は今の家よりもずっと手狭なアパートだ。部屋数も間取りも大幅に小さくなる。両親を巻き込んで、かつてないほどの大掃除が始まった。

 容量を超えて詰め込んだために、ひずんでいる本棚。引き出しが重たくなるほどぎっしりと詰まった学習机。入居以来、荷解きされていないダンボール箱。長年目を向けずにいたものたちだ。それらの内容物を抜き取って、処分することにした。ほとんど埃をかぶっているから、マスクと軍手を身につけて仕事に取り掛かった。

 思わず目を細めてしまうような、懐かしい品々が次から次へと飛び出してくる。何度も読み返してぼろぼろになった漫画。きまぐれに買ったキャラグッズ。落書きの詰まったノート。壊れた卒業記念のオルゴール。目に留まるものたちを、振り切るようにして処分した。理由はいたって単純だ。場所をとるから。壊れているから。合理的だ。

 もちろん、自分が慣れ親しんできたものを捨てるのには抵抗がある。けれど、どんな歴史を経ていたとしても、大切なものは物自身ではない。自分の中にあるはずだ。もし形を失っても、経験や記憶として残るだろう。そう割り切った。そうしているうちに、奇妙な高揚感に包まれた。どんどん捨てる。捗る。しかしそれは一過性のものにすぎなかった。毎日のように思い出のあるものを捨てていくのは心に負担をかける。捨てて、捨てて、また捨てて。残るものはわずかだ。「これは記憶に刻み込んだ。よし捨てるぞ」という別れの手順を踏むことなく、ただ手なりにゴミ袋に放り込む。淡々と過去を消しているようだった。末期の身辺整理にも似ている。

 歴史をさかのぼっていくうちに、幼稚園のアルバムが姿を表した。表紙の絵はあまりに拙く、何が描かれているのかわからない。しかし、それを描いたのは自分だということを直感した。一片の記憶も残っていないのに、そう確信した。役に立たない。覚えていない。再び開くこともないだろう。合理的に考えるなら、ゴミ袋に入るべきものだ。けれど、手は止まった。二度と作ることができないと感じたからだ。そして、自分にとって必要ではなくとも、両親にとっては特別なものであろうことが想像できたからだ。

 はっとして血の気が引いた。このアルバムと同じように、捨てるべきでないものを処分してしまったかもしれない。その可能性を否定できなかった。疲労を理由に、自分の半身というべきもの、歴史を作ってきたものを失ったかもしれない。その罪深さを恐れ、また悲しい気持ちになった。大切なものが、焼却場へ運ばれているかもしれない。

 きっと本当は、こうした品々が沈み固まる前に、少しずつ解いていかなければならなかったのだろう。どうしてそれができなかったのか。振り返るに、捨てるという文化が、自分の家庭にはなかったように思う。使わなくても、壊れていても、物置に押し込んでばかりだった。判断の保留。その積み重ねが今この身に降り掛かっている。

 あらかた物を捨ててしまった部屋は、荒涼としていた。がらんどうで、今使うものだけがほそぼそと寄り添っている。虚無にほど近い。しかし、寂しさに浸る暇もなく、静かに退去日は近づいている。