寂しさ

ただ生きるのにいっぱいっぱいで溺れそうだ。社会人を演じている自分が、いつか壊れてしまうのではないかと不安に覆われる。抵抗しがたい、漠然とした何かが、ふとした時間の隙間や、眠れない夜にやってくる。

何でもいい、誰かに話しかけたい。

未来が見えないとか、表現しがたい不安を紛らわすために。胸の内を晒したうえで共感してほしい。訳のわからない息苦しさを抱えているのが自分だけではないことを確かめて、寄り添っていきたい。

けれども、それは夢想に過ぎないと諦めている。仮に自分の傍に友人や彼女、あるいは家族がいたとして、本当に心から、今現在感じる不確かな苦しみを、一片でも口にできるだろうか。おそらくは不可能だろう。

なぜなら、分かり合える姿を想像できないからだ。苦しみの原因が説明できないし、身体的異常もない。仕事や収入に不満もない。そんな状況で「苦しい」「助けて」「分かって」と訴えたところで説得力のかけらもない。

それは甘えか、冗談か、扱い難い精神病か。

冷静な第三者の感想は、せいぜいがそんなところだろう。共感とは程遠い。親しい人であっても、憐れみを引き出すくらいのことしかできない。そんなふうに想像できる。こんな手に余る問題はそっとしておくのが一番だ。けれどこの気持ちをこのままに留め置くほどの辛抱強さが、自分にはない。

「寂しい」という言葉が口をついて出る。

誰の耳にも届かない。意図のない発言だが、たしかに思考がひとしずく、こぼれていった気がする。ああ、そういう事かと合点が行った。私は、ただ寂しさが苦しく、ただ寂しさを分かってほしいのだ。そう考えると腑に落ちる。考えに飽いて、寂しさという単語に全て押し付けているだけかもしれないが、もっともらしい仮説に思えた。