苦手とか嫌いとかいう中にある因縁と未熟さ

 もう、2013年も残すところあとわずか。次の年になる前に、今年最後の日記を書いておこう。この一年を振り返ってみると、それなりに色々あったけれど、一番覚えているのは新入社員の面倒を見ていたことだ。

 正直に言うと、彼のことが苦手である。単純に、自分が人と会話するのが下手だからかもしれないが、それを差し引いても、日常から「彼は苦手だ」という感情がもやもやと漂っているのだ。その原因について考えてみた。まずは、僕が彼について違和感を抱いた出来事を思い出してみよう。

 ある時僕は、彼から質問を受けて、解決策を2つ提案した。そして、どちらがいいですか、と疑問を投げかけた。「前者を選びたいと思います」と彼は言った。僕は、前者とか後者とかいう言葉に、いやな感情を抱く。自然な会話ではまず生じない言葉だからだ。

 たとえば、「りんごとみかん、どちらが良いですか?」と問われた時、りんごとみかんが頭のなかに浮かんでくるだろう。その時、あなたは順序を考えているだろうか。おそらく、考えていないはずだ。だとすると、前者とか後者とかいう言葉を使うには、発言した順序をさかのぼって、その実体が何であるかを考えなければいけない。これは不自然である。僕は、そういう不自然なことをする人に対して警戒心を抱く。「何をカッコつけてるんだ」と。

 その他に、こちらの依頼した仕事がうまくできなかったりとか、説明がわかりにくかったりとか、色々小さな問題はある。新入社員だから、どうしようもないことなのだとわかってはいるけれど、そういうものがどうしても、嫌な感情を引き起こす。彼は大学院にまで行って勉強しているはずなのだが、文章の書き方だとか、論理的な会話だとかそういうものにセンスを感じない。

 僕は同じく大学院まで行ったが、四六時中研究のことを考えて、性根のねじ曲がった教官にどやされ、悪夢を見続けたものだ。成果が出ず人格否定されて、本当にろくでもないことばかりだった。

 未熟さ。それが許される環境が羨ましいのだろう。聞けば答えが帰ってくる環境。間違っても許されるという環境。そういう甘い状況。それは本当は僕が欲しかったものだ。それを彼は持っている。皮肉なことに、僕自身が与えているふしさえあるのだ。本当に極めてひとりよがりな決めつけであるが、そういう風に勝手な想像をして羨み妬んでいる。

 だいたい、彼のことが苦手である原因はわかった気がする。なにやら面倒くさい感情である。こういう僕に対して、先輩は「君が与えているだけじゃなくて、彼から与えられるものもあるだろう」と言った。そんなことを考えていると、僕の教官が、恐ろしいことを言ったのを思い出す。「私達は相互に与え合うもののはずです。私は色々なものを与えたつもりですが、君からは何ももらっていない」

 さて。色々な感情はあるものだが、表に出てくるものはそう多くはない。僕がこうして考えたように、彼もまた何事かを様々に考えているだろう。苦手であっても火はつかない。原因が分かったなら、気をつければいいことだ。自分の未熟な面もまた気づけたことであるし、まあいいじゃないか。