今現在を大切にすること

 毎日の帰り道で、鮮明に星が光っているのが見える。星座なんてオリオン座くらいしか知らないけれど、不思議と心に染み入るものがある。「ふたつのスピカ」という本を読んだせいかもしれない。神秘性にかけては、これほど普遍的なものはないな、と思う。

 ふとした時に、面白くないことがある。結婚して家庭を築くこともなく、社会に貢献する仕事を成すこともなく、派手に遊ぶことも知らない。そういう風に行きている。そんな人生は、つまらないのではないか。あまり気にしないようにしているつもりだけれど、幸せそうなカップルを見かけたり、酒の席で周りにからかわれたりすると、やはり引っかかるものだ。

 今月は「嫌われる勇気」という本を読んだ。その中に、興味深い考え方があった。過去や未来ではなく、今現在を最も大切にする生き方を知った。自分の解釈は下のようになる。

 過去について思い悩むことは非生産的だ。なぜなら、過去は変えられないからだ。どのようなトラウマであっても、それは当てはまる。トラウマは抗いがたい生理的作用を身体にもたらすが、なにがトラウマで、それがどのように影響しているか把握したとしても、直ちに治療の手がかりとはならない。

 未来に執着することも不幸をもたらす。夢や目標は美しいものとしてもてはやされるが、それが達成されなかった時のことはあまり語られない。一握りの到達者、偉人の下に、夢破れて絶望した人間たちがいる。そうならないためには、未来の為に今を犠牲にしないこと。結果に縛られないこと。努力と成長の過程を楽しむこと。

 物語の終わりに書かれていた言葉が印象的だった。過去や未来といったおぼろげな闇を見るのではなくて、スポットライトのあたった今この時を、ダンスを踊るように生きなさい、というような。それがとても良いと思った。

ガールズ&パンツァーの感想

 寒さに凍えて、病人のように毛布にくるまって過ごしている。街路樹のイチョウが葉を落として丸裸になっていた。生物が活動するのに適した季節ではないということだろう。人間だって休んでいるべきだと思うけれど、社会は一定の流れを保たなければならないらしい。慣性のまま動くほうが、燃費は良いということなのかもしれない。

 動きたくないので、時間つぶしにガールズ&パンツァーを見ていた。単純な萌アニメかと思っていたけれど、想像以上にリアルな戦車戦を繰り広げていたのでびっくりした。各乗員の役割が明確に分かれているところや、戦車の装甲と火力によって戦い方が変わったりするところなど、なかなかに具体的で、かつ広がりがあるように思えた。全く知らない領域の話だったから、すべてが新しく感じられて得した気分だ。単純に、戦車が轟音を立ててぶつかり合っているのを眺めるのも、迫力があって良い。

 全編面白かったのだけれど、なんとなく印象に残っている場面がある。最終話の一つ手前、主人公の女の子が一年生チームを助ける場面だ。ここで、一話からずっと引きずってきたそのトラウマをようやく乗り越えたんだな、とわかる。成長というものは、このようにして描かれるのか、と妙に納得した。

 人は何かを失敗する。それはしかたがないことだけれど、忌々しいことに、その失敗を引き起こした状況が再度訪れることがある。そんなときどのように振る舞うのか。過去の失敗がちらついて、慄き逃げ出すかもしれない。もはや成功しなくて良いのだと諦めるかもしれない。練習や決意など過去と違った自分を支えに、立ち向かうかもしれない。いずれにしても、自分がどう変化したのか、ということが浮き彫りになる。まるで誰かに試されているかのようだ。

プラモデル

 雪までは降らなかったけれど、強く厳しい風が吹く。雨戸を閉めて冬ごもりしていると、少しは寒さもしのげるけれど、太陽の光も届かないので、いよいよ動きが鈍くなる。年末の休暇は特に酷い。日がすっかり昇った頃、暗闇から這い出てくる。目覚めが遅いのは寒さのせいばかりではない。きまぐれに買ったプラモデルを、夜明け前まで組み立てていたからだ。

 こんなことをするのは、何年ぶりだろうか。数年ぶりの作業は、とても不思議な心地がした。ゲームをしている時のような明瞭で熱っぽい楽しさはない。表現しにくいが、そこにあるのは、にじみ出るような静かな楽しみなのだ。

 角度を変えながらランナーからパーツを切り離す。凹凸を噛みあわせてパチリとはめ込む。小さすぎるシールを、複雑な曲面に貼る。やり損なって一人で苦笑する。それら手触りが伝える、かすかで根源的な喜び。隠れてしまうようなパーツの造形の複雑さ。思いがけない機巧で実現された可動部への驚き。エアコンの音しか聞こえない部屋で黙々と続けていく。奇妙な侘び寂び。

 小学生の頃は考えもしなかった。理屈もなしに、楽しめたことだ。わざわざそんなことを考えないと、楽しめたかどうか不安になる。自分が鈍感になっている証なのかもしれない。

f:id:eggchicken:20141231014802p:plain

教えるということ

 まだ十分に紅葉もしていないのに、十二月が訪れようとしている。今日はずっと、雨が降っているのが聞こえていた。雨というのは、考える時間を取るにはちょうど良い。出かけるのに都合が悪いし、しみじみとした気持ちになるからだ。

 ハッカソンのイベントの手伝いをして、学生に対して技術的な指導をしたけれど、あまりうまくいかなかった。何かを教えるということは、とても難しいことだと思う。昔、読んだ森博嗣の小説で「教えるということは不可能だ」というようなことが書いてあった気がする。言葉遊びに近い極論だけれど、なんとなく次のような意味だったと思う。

 教えようとする立場の人間が、何かの事例を示したり、言葉で概念を示したりすることはできる。しかし、それを受け取ろうとする人間が、どのように解釈するか、理解するかは千差万別であって、そのままの形で伝達されることはない。教えようとしたことが、軽々と超えられてしまったり、全く別の概念と結び付けられているかもしれない。言葉を通じた歩み寄りがない限りは、教えようとしたこと、教わったことは一致しない。歩み寄りは双方が行うものだから、それは協力的な行為であって、どちらかが優位に立つことはない。教えるというのは、教えようとする側の傲慢な考え方だ。

 多分に嘘も混じっているし、僕もまるきり信用している主張ではないけれど、いくらか愉快な話だと思う。自分の知っている教員は、どこか尊大な態度の人が多かったので、対等だと思う材料が欲しかったのかもしれない。教えるという行為を除いてみれば、上下関係がやはり生じてしまうのかもしれないけれど。

 まあそれはさておき、学生と接して思ったことは、彼らはまだ未熟だということだ。歳の差は10歳近く離れているのだから、当たり前かもしれない。プログラミングをするための知識が足りていないし、それを補う時間もないので、とにかく「こうすれば動く」という答えを与えるしかない。そんなやり方をしても、理屈がわからないから、応用が効かない。自分のコードが書けない。結果的に「とりあえずやってみた」という経歴を作っただけで、彼らを成長させることはできなかったと思う。難しいことだ。そんな風に、教えることを考えていた自分は傲慢だったのかもしれない。

スコアランキングの熱と虚無の時間

 先月の末に一度見たっきり、赤とんぼを見かけない。何かの勘違いか、まぼろしだったのかもしれない。それでも、暦の上では秋が来て、少しずつ冷えるようになってきた。今月は「片道勇者」「Crypt of Necrodancer」「ブレイブルー クロノファンタズマ」あたりを中心に遊んだ。それからついに「あやかし百鬼夜行」を遊ぶのを止めた。「遊んで、終わった」という感覚が離れて行く前に、ここで一呼吸置いて、まとめておくことにしよう。

 「あやかし百鬼夜行」は、カードを集めること、ランキングに挑むこと、トレードすること、その3つが面白いゲームだった。ランキングに挑むこと、それ自体はまだ中々楽しいものだと思っている。時間あたりのスコアの獲得率を考えて、自分の目指せる順位を予測して「降りる」という選択をしたり、あるいは「いける」と判断して上位に挑戦してみたり。

 また、上位を目指すには有利なカードを集めるためのトレードも重要だった。このゲームのトレードにはシステム的な制約がほとんどない。そのせいで、現実にも似た面白い文化が生まれている。そこでは、ゲーム中の回復アイテムが通貨の役割を果たす。蚤の市みたいに、あちこちで声掛けだとか値引き交渉が行われている。カード同士の等価交換ではなく、イベントで協力する条件にカードのトレードを利用する人々もあった。相場に合わないトレード(シャークトレード)をもちかけるプレイヤーが横行したりもするので、良いことばかりではないが。

 僕は、このゲームにかけるお金は多くても月0円〜3000円くらいに抑えていた。当然、それ以上投資しているプレイヤーには歯が立たない。それでも手持ちのカード、時間、資金、アイテム、それらのリソースを管理運用する面白さは確かにあった。欲しいカードが出るまでは、アイテムを集め、トレードをしながら牙を研ぐ。周到に準備して、時間をかけてスコアを稼ぎ、上位を目指す。人と競う、勝敗の熱。デイトレーダーみたいに、10分毎の順位変動を見つめたりもした。たしかに面白かったのだ。

 では何故やめたのか。ひとことで言うと、スコアを稼ぐのが面倒くさいからだ。ランキングに挑戦するには、スコアを稼がなければならない。スコアを稼ぐ方法は簡単だ。ただひたすら画面をタップすればいい。「探索する」とか「デッキを選ぶ」とか「ボスを攻撃する」とか手順を分けることはできるが、それらはただひとつの行為に集約される。「画面をタップする」それだけだ。タイミングよくボタンを押すとか、敵の体力を見るとか、適切なコマンドを選ぶとか、そういうゲーム的なアクションはほぼ必要ない。5分とか10分のスキマ時間を使って楽しむことができるように設計されているのだろう。

 最初は、レベルが上ったり、お金が増えたり、見慣れないカードを手に入れたりするから、まだ面白かった。しかし、長く遊んでいるとレベルは上がりづらくなる。お金は余っているのでいらない。手に入るカードは何百回も処分してきたものになる。実に退屈だ。それを1時間も2時間も続けなければならないのだ。いや、ランキング上位を目指すなら、それどころではない。ひたすらタップする。唯一の楽しみは、獲得したスコアと、ランキングを眺めることだけだ。そんな時間が、約一週間も続くことになる。それは、自分の人生について振り返りたくなるほど、虚無の時間だ。

 虚無の時間。「遊んでいるはずなのに、全く楽しくない」というその感覚。どんなゲームでもゴールのための苦痛は、どこかに転がっているものだ。しかし、虚無の時間には、変化がない。改善できない。そう感じたら、そのゲームはプレイヤーに別れを求めているのかもしれない。

 収益があるかぎり永遠に続くソーシャルゲームは、自分で踏み切らない限り、別れられない。だから、楽しくないと感じるサインを見逃さないようにしたいものだ。

格ゲーの思い出

 9月ももう最終日。夏の暑さは鎮まり、ずいぶん過ごしやすくなった。赤とんぼがちらほらと飛んで、銀杏の実が落ちている。マツムシやらスズムシやらも鳴いている。秋の侘びしさか、少し昔のことを思い出す。なぜだか、中学生くらいのことを。その頃は格ゲー仲間がいて、休日は一日中対戦していた。

 一番最初に遊んだのは、おそらくスーパーファミコンスーパーストリートファイター2 だと思う。何故か父が持っていたので、それを友達の家に持ち込んで、延々と対戦していた。当時、ジャンプ強キック→しゃがみ強キックの連携と、当て投げ、波動拳、リバーサル昇竜拳ぐらいしか知らなかった、それでもかなり盛り上がったのを覚えている。戦略なんてものはなく、対空という言葉すら知らなかった。

 時間は流れて、ストリートファイターEXで対戦するようになった。このゲームではコンボのトライアルモードがあったので、皆コンボだけは上手くなった。ガイルが流行った。どすの利いた声に滅茶苦茶笑った。ダランやスカロマニアみたいなネタキャラも動かしていて楽しかった。どのキャラもコンボができると、そこそこに使いこなせている感じがして面白かった。戦略上の進化はほとんどなく、ジャンプが通ったら以前よりも火力が高くなったことくらいか。なんとなく、対空に昇竜拳を使うことは理解していたが、対空というワードは未だに知らなかった。できていたのは、ヒット確認くらいだろうか。当時は、雑誌も読んでいなくて、身内でばかりプレイしていたので、何も知らなかった。インターネットがちょうど始まったくらいで、情報の集め方も知らなかった。戦いの質はあまり関係なかった。気心の知れた仲間と遊ぶということが、それだけで楽しかった。

 その後 ストリートファイターZERO2 も遊んだけど、全く変化がなかったのでここでは省略する。自分たちにはオリコンは使いこなせなかった。革命が起こったのはギルティギアゼクスで遊ぶようになってからだ。テレビアニメをそのまま動かしているような滑らかさが凄いと思った。そして「ダッシュ」があるので、簡単に相手に近づくことができ、高速な中段技も豊富なので激しく攻め合うのが面白かった。そのころになると、学校や自宅でインターネットに触れられるようになった。そこで対空技6Pを知って、さらに空中コンボの気持ちよさを覚える。さらに情報が集まってきて「固め」とか「ディレイ」とか「割り込み」とか「投げ暴れ」とか「すかし下段」とか「ファジーガード」とか色々覚えた。僕はアンジを使って中下段同時攻撃とかやっていた。当然、普通の方法では受けられない。思い返すと、酷いことをしていたと思う。このゲームはフォルトレスキャンセルとか、霧ハメとか、○○ループとか、一撃でピヨる連携とか、色々酷かった。何度もコントローラーをぶん投げたくなったものだけれど、それがまた楽しかったと思う。

 続いてカプコン VS SNK もやっていたけど、やはりよく覚えているのはギルティギアイグゼクスの方だ。この頃は雑誌を買って攻略法を見てみたり、インターネットで対戦動画を見たりして、色々なことを覚えた。「カウンター限定コンボ」とか「持続を当てる」とか「直前ガード」とか。技のフレーム表の意味がわかるようになったのもこのころだ。だんだん複雑なテクニックを吸収していって、対戦は複雑化していった。技の相性もわかるようになってきた。しゃがみSと立ちHSのどちらが強いかとか、遠Sに6Pを合わせると勝てるとか。カイの 6P と 2HSの使い分けとか。キャラを使う前に技構成を見て、どれが牽制用か、対空用か、コンボ用かわかるようになる。

 それから大学入試やら何やらで、長い時間をともにした仲間は自然と解散した。空白が訪れた。(その間、猛烈なほどモンハンやぷよぷよに打ち込んだが、その話はまた今度にする)再び格ゲーを始めたのは大学院生の頃だ。研究室にいた後輩に誘われて、スーパーストリートファイター4を遊んだ。長いキャリアの差があったせいだろう、面白いほど勝ちまくった。それが相手に火をつけたらしく、彼はメキメキと上達していって、僕以上に上手くなった。偶然は重なるもので、ちょうどその頃、研究生の先輩からブレイブルーに誘われていた。僕は PS3 を購入して、2つの格ゲーに手を出すことになった。この時の変化としては、ハード付属のコントローラに限界を感じていたことがある。スパ4はシビアなコンボが多く、ずらし押しや同時押しのテクニックが必要だったので、アーケードスティックを購入して、さらに打ち込んだ。

 スパ4は投げ、グラップ、グラ潰し、ガンガード、これらの三すくみがよく出来ていると思う。ギルティギアは攻めが大幅有利だったので、その時は考えもしなかったことだが、対応する楽しさ、攻撃を受け流す楽しさを覚えた。また、前ステップはあるがダッシュがないので、接近し技を当てるということが思いの外難しいことがわかった。この頃にしてようやく「間合い管理」とか「差し込み」とか「差し返し」とかいうのを覚えていった。ウメハラの名前を知って、そのプレイに感動した。波動拳昇竜拳がいかに強力な技か、ということもわかった。対空の重要さがさらに身にしみた。相手を動かす技としての波動拳を覚えた。訓練されてない人がジャンプするポイントが、理解できるようになった。しかし、それから伸び悩んだ。今思うと、受けの楽しさを覚えて、攻めや崩しを蔑ろにしていたのが良くなかったのだと思う。

 ブレイブルーP4Uヴァンパイアセイヴァーの話もしておきたいが、そろそろいい時間になってきた。指も疲れてきたので、ここらでお開きにしようと思う。あまり深く考えたことはなかったけれど、僕は格ゲーと長い時間付き合ってきたのだとわかった。そして、時を経る毎に少しずつ強くなっていた。今では半分動画勢みたいになっているけれど、まだ後ろ髪を引かれる気がする。成長と、勝利の喜び。格ゲーの世界にはそれらがあることを知っている。

ハッピーエンドにならない理由について

 8月はあっという間に過ぎていった気がする。通勤途中に見かけるひまわりが、長雨のせいで花を落としてしなだれていた。毎日見かけるから、変化が目につくのだろう。葉が黒ずんで、さびれていく様が、何か物事の終わりを示しているように見えた。

 終わりといえば、月光条例の最終巻を読んだ。物語の大詰めは皆素直になって激しくぶつかってて面白かったと思う。月光条例という物語は、悲しい物語がキライな藤田和日郎(作者)が、その結末に一言もの申す、という動機で始まったらしい。僕はあまり真面目な読者ではなかったので、作者の最初の動機がどういうところに着地したのかはわからなかった。なので、改めて「なんで物語をハッピーエンドにしないのか」について考えてみた。だいたい3つの理由があると思う。

 一つ目の理由としては「ハッピーじゃないほうがリアルだから」というのがあると思う。物語の背景からして、ハッピーになりっこない、という理屈。エイリアンとかバイオハザードとかで全員助かったらヘンだし、迫力がなくなってしまう。そういう死人が出る話じゃなくたって、うまく行き過ぎる世界はヘンだ。何かの犠牲がないと釣り合わない。多少ハッピーじゃないほうが説得力があるだろう。

 二つ目の理由は「そのほうが心を揺さぶる話になるから」というのがあると思う。これに当てはまるのは、最終兵器彼女とかそうなんじゃないだろうか。あれがハッピーエンドだったら、それはそれでいいんだけど、なんか違う気がする。ごんぎつねとかもそうなんじゃないかな。和解してごんと仲良くやっていくよりも、殺めてしまったほうが、心が痛むし揺さぶられる。悲しみ涙を流すのも、終わったあとはスッキリするものだ。

 最後の理由は「読者にとっての教訓になるから」というのがあるんじゃないかと思った。これは僕だけかもしれないけど、悲しい結末というのは、読んでいて、こうすればいいのに、とかこうだったら良かったのに、ということをよく思う。「キジも鳴かずば」とか特にそうだ。ほんの少し村人が優しければ、ほんの少しのお金があれば、ほんの少しの寛容になれれば、なんでもいいから何かが少し変わっていれば、そうならない結末を迎えられたのに、と思う。そういう悔しさとかいたたまれなさ。それらが教訓となって、現実の生き方に影響するんじゃないだろうか。物語の著者は、わざわざそんなことを考えていないかもしれないけれど、昔話なら、そういう性質を持っていてもおかしくないと思う。

 月光条例では、もう少し別の結論を出していたような気がする。確か「寒い心の毛布」とかいうような。教訓ではなくて共感なのかな。ちょっとわからないけれど、読み返す時間もない。夏も終わることだし、この辺りで終いにしよう。