なぜ神様は人々を救わないのか

 ここ一ヶ月は毎週三回くらい鍋ものを食べた。身体が温まるし、すぐ作れるからこれが一番良いのだと母は言う。もちろん飽きているのだけれど、文句はない。薄味の熱いスープをすすりながら、柔らかくなったキャベツを食べるのが、たまらなく美味かった。ストーブの傍らでは、猫が腹を出して眠っている。テレビでは年末の特番が流れている。こたつがないことだけが心残りだ。

 機会があって手元にあるいくつかの漫画を読み返していた。特に、これはという発見があったのが「純潔のマリア」の一巻だった。魔女マリアが感情を露わにして大天使ミカエルと戦う場面がある。戦争で沢山の人が死んだり、村が野盗に襲われているのを神はなぜ見過ごすのか、なぜ人々を救わないのかと怒り叫ぶ。

 僕は「神様などいない」と考えている立場なので、存在しない神に救いを求める事は、不毛だと思う。けれど、純潔のマリアの世界の中には神は実在するものとして描かれている。それなのに、人々を平和と幸福に導こうとはしていない。じゃあ、神様はどうしたいのか? その問いかけは興味深いもののように思えた。

 神様は、誰かの面倒をみることより、何かを作ることのほうが好きなのかもしれない。神様にとっては創造することが一番の楽しみだとするなら、その後勝手に走りだした生き物たちと関わらないのもうなずける。ソフトウェアだって、メンテンナンスするのが一番手間がかかる。だから、作る楽しみだけ味わいたい気持ちは、実に共感できる。もうどこか別の星で、粘土をこねて、何を作ろうかと頭を悩ませているのかもしれない。火星や水星だって、作りかけの失敗作かもしれない。

 もっと別のイメージを探る。神様は、生み出すことに力を使い果たして、死を待つ老人のように横たわっているだけなのかもしれない。人々が争いに向かっていく姿を見て、涙をこぼしている。もっと良いかたち、もっと良い社会が作れるはずなのだと嘆きながら、しかし干渉することができない。誰一人助ける力もなく、ましてや戦争を止める力などもない。ただずっと無力であることを謝りながら、遠くで見つめているのかもしれない。もしそうなら、悲しいことだ。それと似た人間もたくさんいただろう。悲しいことだ。

 もっとずっと、自分勝手な理由かもしれない。たとえば、人が悩み苦しんだり、不幸に飲まれ壊れたりする姿を見て、快感を覚えているかもしれない。他人の不幸を通じて、自己の安全や平穏をかみしめるのは、特別な行為でもない。品のないことではあるけれど。それとはちがって、ただただ退屈を持て余しているのかもしれない。すべてがうまくいく世界を一通り体験した後、一周回って「なにもしない」ことを選択している。芝居を楽しむ観客として座っているのか、あるいは科学者のような冷たい視点で観察しているのか、どちらの可能性もある。

 もっと、人並み外れた理由かもしれない。世界を統べるものとして、文明の成長を待っているとしたら、どうだろう。戦争の悲惨さが広く知られ、多くの人間がそれを阻止しようとするような社会の完成。そういうものが、はたしてあるだろうか。あるいは、現状が理想だと考えているのかもしれない。戦争も天災も、命が失われることも、受け入れるべきだと考えている。どんな不幸も、どんな幸福も、一人ひとりが何も感じなくなれば、望ましい形というものが失われて「そのままで良い」ということになる。

 色々な神様の姿を思い浮かべたけれど、やっぱり、親しみが持てる神様のほうが好きだ。すべてを超越した何かであるよりも、偏屈なおじいさんであるほうが好きだ。人知を超えた正しい判断よりも、意志のある失敗のほうが好きだ。だから年が明けて神社にお参りすることがあれば、そんな姿を期待しながら手を合わせて来ようと思う。