「CHAOS;HEAD NOAH」の感想と、ある種のオタクの生き方について

 梅雨と台風が過ぎてから、殴りこむように猛暑が訪れた。もはや冷房なしではいられない。アイスクリームだのなんだの氷菓子を父が大量に買ってくるのだが、僕の気が向いた時には冷凍庫は空である。それもまた暑さのバロメーターなのかもしれない。

 「CHAOS; HEAD NOAH」の一周目をクリアした。主人公の西條拓巳を見ていると、オタクのみっともない部分を見せつけられているかのようで辛い。自己中心的で、被害妄想が強い。臆病なくせにプライドは人一倍高く、他人を見下している。

 彼のふるまいを見ていて、なぜそうなってしまうのかと、始終やきもきしていた。それでも、さんざん逡巡した後でヒロインを救うために立ち上がり、剣を見出す場面は心を揺さぶるものがあった。それまでストレスを溜めに溜めたぶん、開放感がすばらしかった。

 ところで、彼の心の不安定さ、未熟さはどこから来るのだろうか。いったい、どうだったら見ていて安心できるのだろうか。

 アニメやゲームは、現実と切り離して楽しむことができるものが多い。どこかへ出かける必要もなく、誰かと関わることもない。つまり、容姿、衣装、立場、礼儀など、あらゆることを気にする必要がない。どんな人でも、閉ざされた精神の世界で、物語だけに浸ることができる。

 このことが、現実世界を嫌う人々の安らぎの場になっている。スポーツも駄目で勉強もできず、顔のつくりは不細工で、恋人も友人もなく、現実世界に期待できそうなことは何もない。楽しく過ごしている人がいる中で、どうしようもない焦りや、閉塞感を抱いている。現実にコンプレックスを抱いている人にとって、精神だけで成立する世界は、心地よい居場所になるだろう。

 しかし、アニメやゲームを愛するあまり現実をおろそかにすると、悪循環が起こりうる。出かけずともコンテンツが配信されるから出無精になる。運動もしないから肥満になり、健康を損なう。誰とも会わないから髪は伸び風呂にも入らず、着替えもしない。不衛生になる。人との関係が疎遠になる。そうして、社会で好まれない人間になる。社会で好まれない人間は、つまはじきにされる。自分の生きる場所は現実ではないと思い込んでしまう。辛い現実を見たくないがために、追い立てられるようにゲームやアニメに没入する。現実に生きるための営みをほぼ切り捨てて、コンテンツを消費するだけの存在になる。

 拓巳の場合はそこまで悲惨ではないけれど、このコースに片足を突っ込んだような状態だ。そうならないためには、どうしたら良いのだろうか。

 辛く苦しい現実を見ようとしない、ということが問題のように思う。そのことが後ろめたさになり、弱点として残り続けるからだ。ダメな自分を知っているのに、それを認めないこと。本当は自分は優れているのだ、と思い込むこと。それは、自分自身を否定することだ。「こんなのは自分じゃない。もっとうまくいきられるはずなんだ」と考えたところで、現実の自分は変わらない。うまくやれる本当の自分はいつまでたっても姿を表さない。それは、自分が自分の価値を認めないということだ。皆でよってたかって、無能だと中傷するなかに、自分が混ざっているようなものだ。そんなことを考えていたら、生きていく力が失われて当然である。

 だからもし、そんな考えにとらわれて、現実から目をそらしているなら、自分をゆるし、受け入れることが必要だと思う。

 自分の肉体、容姿、能力、性格が、いわゆる社会の理想にそぐわないこと。ほとんど必要とされてないと認めること。その上で「しょうがないじゃん」とゆるす。諦めてもよいし、気が向くなら改善の努力をしてもよい。今はダメだけど、いつか良くなるかもしれない。ずっとダメなままだったとしても、まあしょうがない。今以上に他者からの評価が落ちることもない。落ちたとしてどうということもない。そういった寛容さ。ことさらに振りかざす価値よりも、そんなふうに染み出してくるものが良い。

 CHAOS; HEAD NOAH の物語は「現実を書き換えるほどの強力な妄想」の話で、上で言ったような現実を認めることとは逆の答えを見出している。刺激的だったと思うけれど、寄る辺のない妄想の先に幸せがあるとは、僕は思わない。

映画ラブライブの感想

 毎週のように雨が降った。激しい雨は少なかったが、だらだらと降り続く長雨が多かったように思う。中途半端な優しさが梅雨らしい。色あせた紫陽花が崩れそうになっている。やがて夏らしい夏が来るだろう。

 ラブライブの映画を観た。聞き覚えのあるピアノのメロディと、タイトル文字が出てくるだけで涙が出そうになる。思い返してみれば、この一年はかなりラブライブに浸かっていたように思う。アニメから入って、スクフェスをやって、ラジオを聞くようになった。今でも印象深いのはアニメのファーストライブのシーン。それまで、歌とダンスの練習をしたり、チラシを手配りしたり、努力を積み重ねてきたシーンがあったから、成功するのだろうと思っていた。幼稚園のお遊戯会みたいな、受け入れられてしかるべき舞台なのだろう。そう高をくくっていた。けれど、幕が上がってみれば、がらんどうの客席。目をうるませて立ちすくむ三人。思いがけない厳しさに驚いた。いったいこれからどうするんだ、と急激に引きこまれていった。μ'sというグループが生まれて、失敗して、笑って、成長していく姿を見ているのは、本当に面白かった。

 映画では旅をする九人の姿や、沢山のライブシーンが見れて満足だったのだけれど、一度観たくらいではよくわからないシーンもいくつかあった。特に、穂乃果が水たまりを飛ぶシーン。「とべるよ」と声をかけた女性シンガーは何だったのだろうか。

 映画の中でμ'sが解散することははっきりと宣言された。スクールアイドルだったということ、短い時間の中で、学校の中で活動してきたことを大切にしたいと言っていた。最後のライブが流れているわずかの時間が、今までにないほど鮮やかに感じられた。μ's の物語はこれで終わる。そう思うと、言いようのない焦りのような、時間がボロボロとこぼれ落ちていく様が見えるような気がした。砂が落ちるような、花火が弾けるような儚さだ。ライブの映像が切り替わり、スタッフロールが流れる。やがて劇場は暗くなった。

 終わった。すっと力が抜けた。こういう受け止めかたは初めてかもしれない。アニメの最終回は涙がでるほど心を揺さぶられたものだけれど、こうも簡単にスイッチできるのが、自分でも奇妙に思えた。それでも、だいたい物語を終えれば、なにか一言二言と語りたくなる。友人に向かっていつものごとく、整理されてない頭でなにか適当な事を言った。そしてすぐに家路につく。また何事もなかったように日常と仕事が始まる。現実は少し冷淡だ。

プログラミングの試行錯誤と最後の手段

 夜風を取り入れるために窓を開けると、蛙の鳴く声が聞こえた。もうしばらくすると蚊が入ってくるようになるので、この空気を味わえる季節は長くはない。遠くから聞こえる、表現しがたい滑らかな音は風の音だろうか。あまり考えたこともなかったが、風の音にも色々な種類があるものだと感心した。

 特別な話題もないので、仕事のことを思い浮かべる。他の人と協力する仕事がちらほらとあって、なんとなく人がプログラムを書く様子を見ていた。書いたプログラムが一発で動くのは稀なことで、たいていの場合は、ああでもないこうでもないと試行錯誤することになる。

 一つ目。プログラムを一行ずつ読んで間違いがないか探す。誤字がないか、命令が漏れてないか確かめる。だいたい自分でプログラムを書いたばかりなので、間違いはみつからない。

 二つ目。似た処理をしている箇所を真似してみる。よく知らないライブラリやフレームワークを使うときには、よくやる。確かな根拠があってそうしているわけではないので、動いても動かなくても理屈はわからない。もし、それが成功したなら、失敗した時と何が違うのかを確かめるのが好ましい。雑にこれをやると、コピペが氾濫してプログラムは著しく劣化する。

 三つ目。プログラムを少しずつ変えながら実行する。入力を変えた時に、出力がどのように変化するかを観察する。変数をプリントする、というデバッグ方法は、これに当たると思う。

 四つ目。ググる。エラーメッセージが出ているならそれを使ってキーワード検索する。英語が出てきても逃げずに良さそうなところを探す。個人の日記は信頼性に難があるので、ほどほどに見る。技術を提供している公式のドキュメントを見るのが安全(公式がクソな場合もあるが、その場合は技術の選択を誤ったのだと思う)。技術者向けの質問サイトでも良い。ここでの調査の質が最後の手段の説得力に関わってくる。

 五つ目。先輩や同僚に泣きつく。相談の体でもよいが、愚痴気味に声をかけるという手もある。こんな方法やあんな方法を試したけれどうまく行かなかった、と語る。とにかく話を聞いてもらう。何かヒントになることが得られれば良いが、そうでなくても良い。少なくとも「自分以外の人でも、動かない原因は突き止められなかった」という安心感が得られて、次のステップに進むことができる。

 六つ目。諦める。採用しようとした方法は、ダメな方法だったのだと割りきって、別の解決策を探す。たとえば代わりとなるツールを探すとか、別のライブラリを使うとか、設計が変わっても仕様が満たされれば良い。それでも実現できないか、実現するのが果てしなく面倒な場合は、仕様を変えることもあるかもしれない。仕様を変えるには、仕様が変わっても目的が果たされることを説明しなければならない。

 だいたい順番は入れ替わり戻ったりもする。人によってはもっと別なアプローチがあるかもしれない。なんとなく新入社員や学生の世話をしてみた感じでは、彼らは五つ目と六つ目の方法を取らないことが多い。声をかけてやると、だいたいそういう流れになるけれど、自分から踏み込んでくる人はほぼいない。

 相談できない理由はいろいろ考えられる。話しかけるのが怖い、説明が下手でどもる、失敗しているのを見られたくない、とか色々。それでも、相談という手法は強力なので、できれば使ってほしいと思う。

「楽園追放」と人間らしさについて少し

 窓を開けていると学生たちのはしゃぐ声が聞こえる。元気が良いなと見下ろすことができるのは、大人の特権だ。社会人になってから、卒業も進級もなく、一定の速度で生きている。どちらも幸せなことだと思う。

 楽園追放というSF映画を見た。映画自体の面白さはさておき、なんとなく人工知能について思い出したことを、少しだけ書いておこうと思う。

 人ではないものに知能を与えるということは、機械に人間らしさを与えることなのだと思っていた。恥ずかしいことだが、錬金術のような神秘に満ちた学問なのだと思っていた。人間らしい発想、ひらめき、曖昧さ、柔軟性、飛躍、そういった表現しがたいものこそが知能であるように思えた。しかし勉強してみると、そのような思想ではなく、実利のある工学的解決を目指す分野が主流だった。言い換えると、結果が役に立つならば、人間らしさなど備えている必要はない、という方針で研究を進めるのが普通だった。

 問題はデータと解の条件によって表現される。数式とアルゴリズムによって、解決される。教わった知識のほとんどは、いかなるアルゴリズムを用いるか、いかなるデータ構造を用いるかということだった。それなら教養の数学でもやっているほうが、よっぽど知的で面白いんじゃないだろうかと思った。

 当時はそんな風に思っていたけれど、そもそも人間らしさというのは何なのだろう。楽園追放の作中に出てくるロボット、フロンティアセッターはとても人間らしく見えた。ひとつには、完璧に会話ができていた事があると思う。今の人工知能でも、まともな会話はほとんどできない。何か悩みを相談して解決するだとか、好きな音楽について語るとかはもちろんできないし、もっと簡単に、最近あった出来事を話し合うとか、自己紹介を聞いて受け答えするとか、そういったこともできないだろう。

 現代のコンピュータが会話できないのは、彼らに経験というものが不足しているからだと思う。人の会話には背景とか文脈とかがあるけれど、コンピュータにはそれがない。逆に言うと、人間は背景とか文脈とか言った部分に情報を溜め込んでいて、それを出し入れしているから、色々な話題に対して「似たようなことが合った」「共感できる」「こうしたらうまくいくかもしれない」「もしそうだとしたらどんなことが起こるだろうか?」とかいろんな反応が返せるのだと思う。こういった文脈とか背景とかいうものは、データとして表現しがたい。また、経験から感情を導き出したりする技術もない。

 フロンティアセッターにそれができていたのは、自身の開発者たちと会話しながら過ごしてきたからだろう。また彼は、何百年という時間をかけて、作業用ロボットを作成したり、燃料を蓄えるために取引をしたりして、外宇宙探索の準備をしていた。その過程で、色々なアクシデントを経験してきたのだろう。だから、会話をできるだけの下地がある。

 さて、こうして書いてみたわけだが、ここまでの文章は、自分の経験や背景から引っ張り出してきた話題なわけで、まさに人間らしさの要因を備えているはずだ。他の人にどう見えているかわからないけれど、俺は人間らしいのだと感じられてささやかな満足感がある。

火のゆらめき

 今日はとても暖かく、良い天気だった。ただ駅まで歩く短い時間でさえも、特別な穏やかさに包まれているかのように感じられる。母に言われてようやく気づいたのだけれど、庭の衰えた桜も、どうにか花を咲かせていた。

 つい先日、ボードゲームに参加させてもらった。非常に面白かったのだけれど、プレイを終えてからしばらく、熱っぽさと頭痛、それから強い疲労感があった。それでも、いつもどおりに帰宅して、毎日続けているビデオゲームを再開した。疲れているはずなのに、妙に眠気がなくていつも以上に夜更かしをしてしまった。

 翌日、昼過ぎに目覚めて、朝食も取らずにタブレットに触れていると、突然、何かのスイッチが切れたように、脱力感に襲われた。そこでゲームをすることが酷く億劫で無意味に感じられた。この虚無感は何だろう。タブレットを手放して、じっとしていた。何もしないと、何かを考えてしまう。何のためにゲームを続けているのだろうか。

 まずは、除外しておきたい考えが真っ先に浮かんでくる。終わりが無いから続けている。他にすることがないから続けている。悪くはないが、暗い話になりそうなので止めておく。それから、何かのために続けているわけではない、すべてのことに理由があるわけではない、という冷たい考え方。嘘ではないが、何にでも当てはまることを大げさに言ってもつまらない。

 有名な誰かが言っていたことを思い出す。その人は、ゲームを続けていられるのは、自身の成長を目的としているからだ、と言っていた。過去の対戦を観察し改善点を探す。改善点を身体に覚えさせ、正確に再現できるように反復練習する。実戦で改善されたかどうか検証する。そのプロセス、確かに強くなる手応えが楽しい。天辺を探すのではなくて、いつだって、今の自分よりほんの少し強ければ良い、と言っていた。少しずつ少しずつ、その積み重ねが、達人への道のりなのだろう。寒気のするような考え方だ。そんな求道者みたいな考えは持てそうにない。

 自分の考え方とは一致しないけれど、そういう情熱的な考えに触れると、意味もなく前向きな気持ちになってくる。マラソンの観客もそんな気持ちなのかもしれない。何の答えも見出してはいないけれど、達人の見る世界を思い描くだけで愉快な気持ちになれたので、今日はそれで良しとする。

今現在を大切にすること

 毎日の帰り道で、鮮明に星が光っているのが見える。星座なんてオリオン座くらいしか知らないけれど、不思議と心に染み入るものがある。「ふたつのスピカ」という本を読んだせいかもしれない。神秘性にかけては、これほど普遍的なものはないな、と思う。

 ふとした時に、面白くないことがある。結婚して家庭を築くこともなく、社会に貢献する仕事を成すこともなく、派手に遊ぶことも知らない。そういう風に行きている。そんな人生は、つまらないのではないか。あまり気にしないようにしているつもりだけれど、幸せそうなカップルを見かけたり、酒の席で周りにからかわれたりすると、やはり引っかかるものだ。

 今月は「嫌われる勇気」という本を読んだ。その中に、興味深い考え方があった。過去や未来ではなく、今現在を最も大切にする生き方を知った。自分の解釈は下のようになる。

 過去について思い悩むことは非生産的だ。なぜなら、過去は変えられないからだ。どのようなトラウマであっても、それは当てはまる。トラウマは抗いがたい生理的作用を身体にもたらすが、なにがトラウマで、それがどのように影響しているか把握したとしても、直ちに治療の手がかりとはならない。

 未来に執着することも不幸をもたらす。夢や目標は美しいものとしてもてはやされるが、それが達成されなかった時のことはあまり語られない。一握りの到達者、偉人の下に、夢破れて絶望した人間たちがいる。そうならないためには、未来の為に今を犠牲にしないこと。結果に縛られないこと。努力と成長の過程を楽しむこと。

 物語の終わりに書かれていた言葉が印象的だった。過去や未来といったおぼろげな闇を見るのではなくて、スポットライトのあたった今この時を、ダンスを踊るように生きなさい、というような。それがとても良いと思った。

ガールズ&パンツァーの感想

 寒さに凍えて、病人のように毛布にくるまって過ごしている。街路樹のイチョウが葉を落として丸裸になっていた。生物が活動するのに適した季節ではないということだろう。人間だって休んでいるべきだと思うけれど、社会は一定の流れを保たなければならないらしい。慣性のまま動くほうが、燃費は良いということなのかもしれない。

 動きたくないので、時間つぶしにガールズ&パンツァーを見ていた。単純な萌アニメかと思っていたけれど、想像以上にリアルな戦車戦を繰り広げていたのでびっくりした。各乗員の役割が明確に分かれているところや、戦車の装甲と火力によって戦い方が変わったりするところなど、なかなかに具体的で、かつ広がりがあるように思えた。全く知らない領域の話だったから、すべてが新しく感じられて得した気分だ。単純に、戦車が轟音を立ててぶつかり合っているのを眺めるのも、迫力があって良い。

 全編面白かったのだけれど、なんとなく印象に残っている場面がある。最終話の一つ手前、主人公の女の子が一年生チームを助ける場面だ。ここで、一話からずっと引きずってきたそのトラウマをようやく乗り越えたんだな、とわかる。成長というものは、このようにして描かれるのか、と妙に納得した。

 人は何かを失敗する。それはしかたがないことだけれど、忌々しいことに、その失敗を引き起こした状況が再度訪れることがある。そんなときどのように振る舞うのか。過去の失敗がちらついて、慄き逃げ出すかもしれない。もはや成功しなくて良いのだと諦めるかもしれない。練習や決意など過去と違った自分を支えに、立ち向かうかもしれない。いずれにしても、自分がどう変化したのか、ということが浮き彫りになる。まるで誰かに試されているかのようだ。