チェインクロニクル第二部を終えて

 家の二階にいると、スズメの声が聞こえるようになった。あまりに近くから聞こえるものだから、窓から顔を出して調べてみた。ちょうどエアコン裏の壁から小さな影が飛んでいった。配管が通っている穴の隙間が、住処になっているらしい。どうしてそこに落ち着いたのかわからない。小学生が、秘密基地をつくるようなものだろうか。今のところ被害もないので、静かに見守ることにした。

 チェインクロニクルというゲームがある。ここ二年の間、毎日少しずつ遊んできた。そのメインストーリーが、ようやく終わりを迎えた。長い旅を終えたような、空っぽな気持ちになっている。今後もイベントや何かしらの続編が出るらしいけれど、その気持は変わらない。

 それは、ファンタジーという文脈では、そう珍しくもない物語だった。旅を通じて多くの人と出会う。その土地にはその土地の文化がある。魔法を研究している三つの塔があったり、鍛冶の得意な種族が棲む地下迷宮があったり、戦いを好む鬼の棲む島があったり。他にも、森に囲まれた世界樹の図書館があったりする。どの作品でも見かけるような、ある意味使い古された場所だ。それでも、きっと楽しいことがあるだろうと感じさせる魅力が詰まっている。美味いものは何度食べても美味い、ということかもしれない。

 二部になってからも、物語の構成はそう変わらない。各地で人助けをしながら、よい関係を築いていく。けれど、そこに棲む人々が、より濃く創作的なものになっていく。住人のほとんどが囚人と看守で構成されている罪の大陸。半獣人の一族が棲むケモノの大陸。大人に成長する前に寿命を迎えてしまう短命な一族が暮らす薄命の大陸。人体を機械化したほうが身分が高いという文化を持つ鉄煙の大陸。どの大陸にも、個性的な面々が集まっていて、それぞれが抱えた問題がある。冒険するにはうってつけの場所ばかりだ。

 終盤では、世界を滅ぼそうとする黒の根源に立ち向かう。強大で、会話の通じない絶対的な悪。明らかな虚構だ。けれど、やっぱり、それが良いのだ。理不尽に強力であるほど、それと対峙する勇気が際立つ。戦って心が痛むような敵でないほうが、良い。そこにプレイヤーの気持ちは乗る。二年旅をした仲間と最強の敵をぶっ倒す。これで、興奮しないわけがない。ああ、これってRPGだよな…としみじみ感じた。FF6とか、クロノトリガーとか、テイルズオブデスティニー2とか、サモンナイト3とか、ペルソナ3とか。挙げればきりがないけれど、そういう感じの熱。いろんな、たくさんの側面があって、語り尽くせないものがある。でもやっぱり、その熱だけは外さず書いておこうと思った。

不満を分析する

 我が家ではまだ、たびたび暖房をつけているが、日中は少し暖かくなってきた。梅の花が咲いているなと気づいた頃には、隣の庭にも赤い花が咲いていた。残念ながら、名前は知らない。田畑もずいぶんと賑やかになっている。白詰草でいっぱいになっているものもあれば、芝生のような青々とした草が敷き詰められているものもある。菜の花だらけの場所もあった。寝かせている土地に勝手に生えてきたのか、植えているものなのかは知らないが、色々な草花が元気をとりもどしているのは確かなようだ。

 春の気候とは対照的に、自分自身はあまり良い調子ではない。特に、色々事情があって、今勤めている会社に対して不満を抱いていることが大きいのかもしれない。あれこれと考えてみたが、あまりうまい解決策を見出すことができていない。もやもやするなかで、不満そのものの性質、捉え方を考えてみた。あまり良い成果は出ていないが、他に書くこともないので、少しまとめておきたいと思う。

 不満とは満たされないことだ。何らかの理想に対して、現実がそうではない時に生まれる。たとえば、給料が低いとか、残業が多いとか、上司がうるさいとか、そういった何気ない不満のなかにも、理想と現実がある。

 考えやすそうな「給料が低い」という不満を例にして詳しく見ることにしよう。まず、理想について考えてみる。「給料が低い」という言葉を裏返すと「給料が高い」という理想があることがわかる。だが、どのくらいだと給料が高いのか、というものさしは人によって異なる。理想とする給料が年収一千万の人もいれば、自分の衣食住が足りる程度で十分だという人もいるだろう。

 次に、現実について考えてみる。「給料が低い」というのも主観的な意見なので、これも人によって異なる。愚痴をいう時は特別考えたりしないものだが、アルバイト並に低いとか、一ヶ月の生活費より低いとか、自分の友人の給料より低いとか、何か思い浮かべていることがあるはずだ。月収○万円と具体的な数値を出すよりも、何と比べて低いのか、ということを見つめるほうが理想とからめて考えやすい。

 こうして不満の要素を分けることで、どう立ち向かうかということが捉えやすくなる。不満を取り除く方法はおおまかに2つある。現実を理想に近づける努力をするか、理想を諦めて現実を受け入れるか、どちらかである。「給料が低い」の例では、収入を増やして現実を上げるか、支出を減らし理想を落とすか、ということになる。ここから、もっと具体的な案を出していくとよい。

 ひとつ注意するべきことは、現実について、あまり広く見過ぎないようにすることだ。たとえば「給料が低い」という現実の背景には、覆し難い事実がある。日本が不景気だから、給料が低い。確かにその通りかもしれないが、不満を抱く個人が解決すべき問題では無いはずだ。自分の給料を上げることが理想なのに、日本が好景気になることを理想だと取り違えてはいけない。果てしなく不確かで、遠回りの道になるからだ。最近話題になった「保育園落ちた日本死ね」の人についても、ずいぶん大変な方法を選んだものだな、などと感じた。そういう人が社会を動かすのかもしれないが、個人の不満を解消するのはずっと先になるだろう。

 あれこれと話を書いてきたが、実際に不満を述べる時は、本当に解決したいというよりは、単に共感して欲しいだけのことも多い。しかし、共感を得ることで和らいだ不満は、そのうちまた膨らみ始める。共感を求めて不満を吐き出すのも悪くはないが、腰を据えて不満と向き合うほうが良い結果をもたらすと信じている。

勇気について

 天気の悪い日が続いた。雪や雨にふられて、濡れながら走るような日が何度もあった。どうにか晴れた日も、外に出ると霜が降っていたり、刺すような冷たい風が吹いていた。どれだけ重ね着をしても、顔だけは寒さに耐えなければならない。顔を守るとしたら、銀行強盗がつけていそうな覆面でも買えば良いのかもしれない。正面から吹き付ける風に目を細めながら、そんな妙なことを考えた日もあった。

 少し前に、海猿という漫画を読んだ。海難救助に参加する青年の話だ。生死に関わるドラマを単に描くだけではなく、海賊や不審船なんかの現実問題も絡めてあり、なるほど知らない世界だと感心させられた。それ抜きにしても熱くて良い漫画だと思う。特に印象に残っていたのは勇者の話だ。「怖いもの知らずだから勇者なんじゃない、怖いけど勇気を出すから勇者なんだ」というようなことを言っていた。大したことじゃないけれど、勇気が必要なときにこのことを思い出す。たとえば、親しくない人に話しかけてみようかと迷う時。会議で反対意見を主張しようとする時。言いたいことがあって、けれど言わなくてもなんとかなる時。そういう時に「怖いけど勇気を出す」という言葉が、かすかな後押しになる。

 親しくない人に話しかけたり、会議で反対を主張することが、本当に勇気のあることかと言われると、わからない。けれど、そこには躊躇する要因があって、それを振りきって行動するという過程があった。それが勇気なのだと思う。他には、好きな人に告白することだってそうだ。あなたが好きですという言葉を発することで、周りの人たちにばかにされたり、告白した相手に拒絶されたりするのではないかと恐れる。恥ずかしがる。自分の本心をさらけ出しているわけだから、それが失敗に終わったとき、ひどく傷つくだろう。その恐れを振りきって行動するから、そこには勇気があるのだと思う。

 逆に言うと、同じ告白であっても、そこに迷いがなければ勇気はないのだと思う。いつも誰にでも好きです愛してます、と言いふらしているような人が、同じ調子で誰かに告白していたらどうだろうか。好きな食べ物を話しているのと同じくらい軽い。まあ、そうは言っても、ひどく口ごもっていたり、顔を真赤にしながら言っていたなら、きっとそこには恥があって勇気がある。

 迷いがあって、決断があれば、なんだってそこには勇気があると思う。エロ本を買うことすら、そう思う。自分のことを振り返ると、二十歳を超えるまで、勇気を出す機会を避けるようにして生きてきた。だからほかの人と比べて、勇気を出すことに慣れていない。皆がもうとっくに慣れて、勇気なんか出さずともできることに、勇気が必要だったりする。たとえば、喫茶店に行くこととか。これ以上は情けなくなるばかりなので、伏せておく。ともかく、そんなふうに、日常の中で勇気を出しながら生きているだろうかと考えてみるのも面白いかもしれない。

ゲームと緊張について

 三日も雪が降り続いている。最高気温はマイナス三度。道路も、屋根の瓦も、庭木も雪に覆われてまぶしく感じるほどに白い。車も通らない道を制服の中学生が三人並んで歩いている。少し外に出てみたが、足首まで埋まるほどの積雪に心がしぼんだ。一時間もぐずぐずしてから、会社を休むことに決めた。家で働くこともできるかもしれないが、何かそういう気分にはなれなかった。冷えた指先で、日記を書くことにする。

 イベントが開催されるということで、久しぶりにスプラトゥーンを遊んだ。簡単に言うと、水鉄砲のような銃で撃ち合うゲームだ。しばらく離れていたが、やってみると、やはり面白い。ただ、どういうわけか、いつもよりひどい疲労感を覚えた。

 やられる瞬間に全身がこわばる。相手を倒す時も同じようになる。決着が着くごとに我に返って、もっとリラックスしなさいと自分に言い聞かせる。身体を伸ばしてみる。それでも、ほぐれない。一時間も遊んでいたら、すっかりくたくたになっている。緊張からくる震えは何試合かすれば収まるけれど、このこわばりがどうにもならない。仕事で感じたこともないような肩こりがあった。

 危険を感じた時に体がこわばるように、本能的な反射がそうさせるのだろうか。大げさな話だが、戦場で戦う兵士のように、命のやり取りを擬似体験しているのではないかと思った。スプラトゥーンでは、相手がどこから襲ってくるかわからない。また、主観視点に近いから、格闘ゲームなどと比べると危険を錯覚させる要素が強いのかもしれない。

 このこわばりを取り除くには、どうするのが良いだろう。一番わかりやすい方法は、身体を慣れさせることだろう。繰り返し同じことをして、危険ではないということを身体に覚えさせる。わざと無防備なままに前線に出て、弛緩した状態で倒されるなんていうのも一つの訓練になるかもしれない。スポーツ選手みたいに決まったフォームやルーチンを定めるのも効果がありそうだ。

 もっと楽にプレイするには、緊張する場面を減らすことも良いかもしれない。音、痕跡、戦場の敵の数、敵がよく潜んでいる位置、そういうものを読み取って、いま命の危険があるかどうかを察知できるようになれば、少しは緊張しなくなるだろう。戦場で常に緊張しているから疲れるのであって、危険がある場面だけ緊張していればもっと疲れないはずだ。

 他に考えてみると、プレイ環境の気温も関係しているかもしれない。夏頃遊んでいた時は、上のようなこわばりをそれほど感じなかった。暖かい部屋、暑い部屋で遊んでいるときは、自然と身体がほぐれているのかもしれない。

 ゲームを遊んでいるときの心身の状態について、もっと改善できる部分があるのではないかと度々思う。でも、遊んでいるときは感情に振り回されて忘れてしまう。そのままでも十分楽しい、むしろそのほうが楽しい、と言われるかもしれない。もっともな意見だが、楽しみの他に、何かを得ているのだと思いたくて、そんなことを探したくなる。成長する種。経験値のようなもの。何かを教えてくれる石。そういうものが転がっているのではないかという夢を見たくなる。

なぜ神様は人々を救わないのか

 ここ一ヶ月は毎週三回くらい鍋ものを食べた。身体が温まるし、すぐ作れるからこれが一番良いのだと母は言う。もちろん飽きているのだけれど、文句はない。薄味の熱いスープをすすりながら、柔らかくなったキャベツを食べるのが、たまらなく美味かった。ストーブの傍らでは、猫が腹を出して眠っている。テレビでは年末の特番が流れている。こたつがないことだけが心残りだ。

 機会があって手元にあるいくつかの漫画を読み返していた。特に、これはという発見があったのが「純潔のマリア」の一巻だった。魔女マリアが感情を露わにして大天使ミカエルと戦う場面がある。戦争で沢山の人が死んだり、村が野盗に襲われているのを神はなぜ見過ごすのか、なぜ人々を救わないのかと怒り叫ぶ。

 僕は「神様などいない」と考えている立場なので、存在しない神に救いを求める事は、不毛だと思う。けれど、純潔のマリアの世界の中には神は実在するものとして描かれている。それなのに、人々を平和と幸福に導こうとはしていない。じゃあ、神様はどうしたいのか? その問いかけは興味深いもののように思えた。

 神様は、誰かの面倒をみることより、何かを作ることのほうが好きなのかもしれない。神様にとっては創造することが一番の楽しみだとするなら、その後勝手に走りだした生き物たちと関わらないのもうなずける。ソフトウェアだって、メンテンナンスするのが一番手間がかかる。だから、作る楽しみだけ味わいたい気持ちは、実に共感できる。もうどこか別の星で、粘土をこねて、何を作ろうかと頭を悩ませているのかもしれない。火星や水星だって、作りかけの失敗作かもしれない。

 もっと別のイメージを探る。神様は、生み出すことに力を使い果たして、死を待つ老人のように横たわっているだけなのかもしれない。人々が争いに向かっていく姿を見て、涙をこぼしている。もっと良いかたち、もっと良い社会が作れるはずなのだと嘆きながら、しかし干渉することができない。誰一人助ける力もなく、ましてや戦争を止める力などもない。ただずっと無力であることを謝りながら、遠くで見つめているのかもしれない。もしそうなら、悲しいことだ。それと似た人間もたくさんいただろう。悲しいことだ。

 もっとずっと、自分勝手な理由かもしれない。たとえば、人が悩み苦しんだり、不幸に飲まれ壊れたりする姿を見て、快感を覚えているかもしれない。他人の不幸を通じて、自己の安全や平穏をかみしめるのは、特別な行為でもない。品のないことではあるけれど。それとはちがって、ただただ退屈を持て余しているのかもしれない。すべてがうまくいく世界を一通り体験した後、一周回って「なにもしない」ことを選択している。芝居を楽しむ観客として座っているのか、あるいは科学者のような冷たい視点で観察しているのか、どちらの可能性もある。

 もっと、人並み外れた理由かもしれない。世界を統べるものとして、文明の成長を待っているとしたら、どうだろう。戦争の悲惨さが広く知られ、多くの人間がそれを阻止しようとするような社会の完成。そういうものが、はたしてあるだろうか。あるいは、現状が理想だと考えているのかもしれない。戦争も天災も、命が失われることも、受け入れるべきだと考えている。どんな不幸も、どんな幸福も、一人ひとりが何も感じなくなれば、望ましい形というものが失われて「そのままで良い」ということになる。

 色々な神様の姿を思い浮かべたけれど、やっぱり、親しみが持てる神様のほうが好きだ。すべてを超越した何かであるよりも、偏屈なおじいさんであるほうが好きだ。人知を超えた正しい判断よりも、意志のある失敗のほうが好きだ。だから年が明けて神社にお参りすることがあれば、そんな姿を期待しながら手を合わせて来ようと思う。

なぜ僕はラジオを聞くのか

 夜、街路樹の電飾が光っているのを見かけて、ずいぶん気の早いことだと思った。けれど、それから数日後には雨が振り、そしてぐっと気温が下がった。冷たい風が、上着の生地をすり抜けてくる。もう冬は目前にある。

 ここ一年ほど、ラジオを聞くのが気に入っている。ガンダムサンダーボルトの主人公が聞いているような洒落た音楽番組ではなく、ゲーム(チェンクロラジオ)やアニメ(のぞえりラジオガーデン)それから、声優個人の番組(人生道でも飯田里穂)なんかを聞いていた。

 ラジオのことを誰かに話そうと思ったのだけれど、思い浮かべても「これが面白い」と言い切れるような何かを見つけられなかった。内容といえば世間話や大喜利、連想ゲームみたいな他愛のない遊び、あとは番組に関連する商品のお知らせ、といったものだ。ラジオのもたらす情報や話題が興味深いというわけではないように思う。でも、家に帰ると何時間も流しっぱなしにしていたりする。なにか、不思議な魅力があるのは確かなように思われた。

 もう一度注意しながら、改めてラジオを聞いてみると、ゲームやアニメのよくある他愛のない話で、共感できることが心地良いのだとわかった。たとえば、どうしようもなく好きなキャラについて語ったり、泣ける場面について熱く語ったりすること。他には、実はこんな仕掛けがあるんじゃないかという妄想も良い。ともかく、好きな作品であれば、話題はいくらでもある。

 思い返せば、小学生の頃なんて、ほとんどそういう話題しかなかった気がする。熱中していたゲームや漫画について話すことは終わりがなく、とにかく楽しかった。幼い頃に触れた作品が思い出深いのは、仲間とその楽しさを共有できたことも影響しているのかもしれない。そういう素朴な心地よさ、気心の知れた友人と雑談しているのと似た感覚を、ラジオは与えてくれる。

 こういった良い感覚を生み出す元になっているのは、ラジオの出演者が少人数であることだと思う。普通、ラジオの出演者は二人、多くても三人程度しかいない。毎週のように見慣れた面子で、小さな話をする。回を重ねるごとに、緩みが生まれる。間の抜けた話、ささやかな自慢、仕事の意気込み、一風変わった趣味や習慣。そういう人柄に触れることが妙に心地良い。ああこの人は面白いな、好きだなあと感じられる。

 心が震えるような、頭で火花が散るような特別さはそこにはないけれど、不思議と吸い寄せられるような安心感がある。最近始まったばかりの「ゆゆらじ」もまさにそういう雰囲気をたたえている。これは特定のアニメやゲームに関連した番組でもなく、動画付きなので相手を選ばない。慌ただしく時間が過ぎていくことに、疲れや寂しさを感じている人は聞いてみると良いんじゃないかと思う。

【第1回】RADIOアニメロミックス 内山夕実と吉田有里のゆゆらじ ‐ ニコニコ動画:GINZA

 

家事について

 朝の寒気がはっきりと感じられるようになってきた。青々と波打っていた水田の爽やかさを書こうと思っていたけれど、その機会もなく実りの時期は過ぎ、刈入れが終わって今はもう丸裸になってしまっている。どうにも、時間がすぎるのは速い。

 ちょうど毛布を引っ張りだした頃、急に母が不調を訴えだした。すぐに治るだろうと思っていたけれど、長引いている。小さな病院でも、大きな病院でも診察を受けたものの、原因はわからなかった。今もまだ長い時間を布団の上で過ごす生活が続いている。ただ、食欲は出てきたので少しは回復したのだろう。

 ともかく、そういったことがあってから、母に任せきりだった家事について考えなければならなくなった。父はほとんど家事をする気がなかった。食事はコンビニの弁当で良い。ゴミはあふれても気にしない。洗濯をしたくないから着替えなければ良い、食器洗いをしたくないから割り箸や紙コップを使えば良い。そう考えているらしい。

 僕も普段家事をしないので、いつもどおり過ごしていると、家が汚くなった。洗濯物が山積みで着る服がなくなったし、台所は汚れた食器であふれ、カビの生えた鍋が放置されていた。空き缶とコンビニの袋に包まれたゴミがそこら中に転がっている。

 普段、何一つ考えずゲームばかりしているのだが、この時ばかりは居ても立ってもいられなくなって、まずは、ゴミをひたすら捨てた。テレビにかじりつくばかりで、家事をしようとしない父に腹が立ったが、すぐに期待するのを止めた。

 次に、切らしていた歯磨き粉や、その他の消耗品を買ってきた。飲み物を買ってくるのが重たくて、自宅でお茶を淹れるべきかと思ったが、急須にはカビが生えてしまっていたので諦めた。維持されるためのコストが払われなくなれば、ものは簡単に失われるのだと知った。

 洗濯機を回して、外に干した。肌着のような傷みやすい服はネットに入れて洗えと母から指示があったのでその通りにした。食器を洗って、指がふやけた。シンクに溜まっていた生ごみは菌が繁殖して、表現しがたいグロテスクな物体になっていた。悲鳴を上げながら始末した。こんな時は、絶対に視力が低いほうが得をしていると思う。

 慣れないことをしたせいか、ぐったりしたが、それでもできないことはないな、と思った。プログラミングの仕事をしている時よりも、家族に貢献しているという気持ち、誰かのためにはたらいているという手応えがあった。生活に必要な物を満たしている、人間らしい活動をしているという感覚もある。それはゲームをしている時間と比べると、奇妙な爽やかさがある。

 もしかすると、普段は退屈だからゲームをしているだけなんじゃないだろうか。そんなことを思った。本当は別にゲームが好きなのではなく、空いた隙間を埋めているだけなのではないか。虚しい考えだと思った。けれど、そんなものは杞憂だということがすぐにわかった。数日後には、当たり前のように、楽しくゲームができていたからだ。