悲しいことについて

腹膜炎とかいう病気で、ひたすらに眠っていた頃、ある夢を見た。二匹の猫を撫でたり、おもちゃで遊んだりする夢だ。どこかで見たことのある顔立ちだなと思ったら、かつて一緒に暮らしていた猫だった。すると、とてつもなく悲しい気持ちになった。僕はそいつらの事が気に入っていて、好きだったのだとわかった。

悲しいことがあった時、多くの人は気晴らしをする。好きなものを食べるとか、体を動かすとか、テレビを見るとか、とにかく悲しいことを放っておいて、楽しめることをする。楽しんでいるうちに悲しいことを忘れてしまうだろう。

夢に見た二匹のことも、そうして忘れてきた。いや、忘れているというよりも、記憶にふたをしているという方が正しいかもしれない。思い出さないようにしているが、何かの拍子にふたが外れると、思い出があふれてくる。彼らが命を落とす前のことは鮮明に覚えていて、それが一番悲しいことだ。

こういう事を何度か繰り返してきて、今またそれを体験している。ああ、そういえば悲しいなと思い出す。何か生きることの虚しさというか、終わりが訪れることへの不安とか、そういうもので胸がざわつく。いつもなら、悲しみが引くまで、触れないようにする。けれど、今はなぜだか、そうでもない。

猫たちの事を思い出すと悲しいのは、二度と会えないと信じているからだ。それなら、いつかまた会えると信じてみるのはどうだろう。生まれ変わるのかもしれないし、自分が死んだあと迎えにきてくれるのかもしれない。そういえば「虹の橋」という話が、まさにそう言っていた。いつか会えると。それはとても感動的なものだが、甘すぎる。それほど都合の良いことがあるとは、信じられない。

それなら、二度と会えなくても仕方がないと割り切るしかない。彼らは生きていた。その事実こそ幸運だったと感謝するのはどうだろう。悲しくなるのと同じくらい幸福な時間があったはずだから、そのことについて感謝する。悲しいのはしかたがない。悲しくても、暗い顔をしなくていい。悲しいまま楽しく生きていけるだろう。