善行できるかな

 善行というものについて考えた。電車でお年寄りに席を譲るとか、道に迷っている人を案内してあげるとか、落とし物を拾って手渡してあげるとか。そういう助け合い精神というのは動物にもあるらしい。この前、自分の子供じゃないのに、群れの中にいる子供を助けたゾウの話を聞いた。それはたぶん、合理的だからそうするのだろう。余裕のある者が、余裕のない者に手を差し伸べる。それは、分子の結合みたいなもので、持たないものと持ってるものが結びつく自然なことなのかもしれない。

 だから、おそらく多くの人が上に挙げたような善行はするべきだし、自然とできるほうが好ましいという教育をされてきたはずだ。それは確かに合理的なので、そうしたほうがいいだろう。けれどしかし、実際には、誰かに席を譲ったり、何か善行をするのは難しい。

 それはなんでだろうか。一つには、その人が本当に余裕が無いのかどうかわからないから。もしそこを読み違えてしまうと、失礼になるかもしれない。なぜなら「あなたは余裕がなさそうだから席を譲ってあげるよ」という押しつけになってしまうので。そこで、断られてしまったら、なんとなく居心地の悪い感じになってしまう。逆に、青い顔で立っているのも辛そうな人なら、席を譲りやすくなる。

 もう一つは、困っていてもなんとかなるような時代になってきたから。たとえば道に迷っていると言っても、最近の地図アプリは優秀なので、ゆっくり時間をかけて調べれば、目的地までたどり着けるだろう。困る状況が減っているので、助ける機会も減っているというわけだ。

 さらにもう一つ。自分じゃなくても誰かが助けにはいるだろう思ってしまうから。有名な「誰も消防車を呼んでいないのである」というやつだ。火事というのは目立つし、たくさん人が集まってくるから、誰かが消防車を呼んでいるだろう。助けに入るだろう。と考えて誰も動かなくなるというパターン。

 まだもう一つある。一番言いたかったやつ。それは「何かっこつけてんの?」と思われたくないからだ。率先して善行をやるのは、どう考えても目立つ。それは点数稼ぎみたいに見えるし、何か社会に対して媚びているような感じさえする。誰も見ていないところでも同じ善行ができるのか。心からその善行をしているのか。ポーズだけじゃないか。そういう不思議な、合理性とは関係のない所でプレッシャーを感じて、踏みとどまってしまう。わけがわからない気もするけど、自分はそうだ。

 「これって、あれじゃない? 席譲ったほうがいい系の流れ? うーんどうしよう。ああでも、何かこう大丈夫そうな感じ? だからまあ、ちょっとくらい我慢してもらって、そのままでも大丈夫だよね。うんそれでいいや」みたいな感じの見逃し善行がわりとある。こんなしょうもない葛藤をする度に、しょうもない大人になっちゃったなと思う。警察官とか、教師とか、何かを背負っている人たちだったら、見得を切ることもなく、さらりと善行できるんだろうか。

 それにしても、なんて人間はめんどくさいんだろう。「余裕あるけど、余裕あげようか?」みたいな単純なことのはずなのに。