海月水族館へ

 悲しいことがあると知らず知らずのうちに海月水族館へ足が向く。人工海岸を歩いた先にある、そのちっぽけな建物には、ほとんど何もないけれど、名前の通り海月だけはいる。

「よくきたね。外は寒かっただろう」

 重たい扉を開けると、それこそ海月のような髭をたくわえた毛むくじゃらの館長が出迎えた。私は軽い会釈で答える。私が喋らない人間だと知っている館長は、静かに穏やかに頷いた。わずかばかりの入館料を支払うと、そっと使い捨ての懐炉を譲ってくれた。

「暖房をかけるお金がないのでね」

 そう言って、いたずらっぽく微笑んだ。私は感謝の言葉を伝えて、その場を離れた。

 館内は、あまりにも閑散としていた。誰一人としてすれ違うことはない。いつものことだが、学芸員も飼育員も見当たらなかった。すぐに幅二メートルほどの水槽に行き当たる。大きな水槽に似つかわしくない、小さなミズクラゲがただ七匹そこにいた。乳白色の柔らかそうな身体に、か細いレースの糸を垂らしながら優雅に泳いでいる。蛍光灯に照らされ光を透かすその姿は、とても神聖なものに見えた。

 水を循環させるエアレーションの低音だけが静かに流れていく。暗いベンチに腰掛けて、私は背景の一部になった。

 脳を持たないこの生物は、何を考えて生きているのだろう。彼らには天も地もない。ただ流れに身を任せている。七匹は無関係にすれ違い、無秩序に漂っている。そう、それを眺めていると、くだらないことで悩むのは止そうと思えるのだ。だが、その経験則は虚しく打ち破られた。心のざわめきが止まらない。ただただ胸が苦しい。七匹がなんの言葉もかけてくれないことを恨めしく思うほど、自分のことしか考えられない。

 気がつくと指先が凍るように冷え切っている。息を吐きかけたぐらいでは、気休めにしかならなかった。なるほど、たしかに冷える。ポケットに手を突っ込むと、暖かくなっていた懐炉に指先が触れた。私はそれを、そっと握りしめた。じわりと熱が伝わってくる。そうだ。なんの支えもない人間は、こうして、ささやかなものに頼らなければならないのだ。