仲間を求めて

 何かを生み出すには狂気が必要だ、という結論に満足して昨日はぐっすり眠れた。しかし、夜が明けて早速、自分に疑いの目を向け始めた。これまで、自分に狂気が足りなかっただろうか。変態ではなかったのだろうか。いや、そんなことはないだろう。いくらかは既に、変態だったはずだ。もしかすると、変態であるだけでは足りないのではないだろうか。

 僕は、何かに向き合おうと考えるときほど心の内側へ、より内側へと探りをいれる。じっと暗闇を見つめて、そこにあるものが何であるかを探し歩く。それは、深海に一人、宝を探して素潜りしているようなものだ。滅多なことでは宝は見つからない。見つかったとしても鍵がかかっている。試行錯誤の末に、ようやく宝箱が開く。よくやく開いた箱から視線を切ると、あたりには深い闇が広がっている。

 ちょっと大げさだったかもしれない。ともかく、そういうイメージだ。そしてそれはとても効率が悪い。終わりなくそれを続けることを望んでいるなら、そのままでもいいかもしれない。でも、いつまでも今のままでいたいとは思わない。もっとすごいことを探すために、やり方を変えるべき時が近づいているのかもしれない。

 いや、何もこの記事を書くための話に限ったことではない。「もの書きを生業にしたいなら、どうするか?」という話でも同じことが言える。もっと良いアイデアを、もっと良い文章で、もっと手早く、作るにはどうしたらいいのか。いくつかの本を読んで勉強したことはある。けれど試してないこともある。それは、仲間を探し集めることだ。

 ごく当たり前のことだけれど、そういう事に思い至らなかった。なぜなら、どうせ無理だと思っていたからだ。多くの人は、深海の宝を面白がるけれど、自分で探そうとはしないだろう。勝手にそう考え諦めていた。けれど実際に「宝を探しに行かないか?」と誘ったことはなかった。そういうことかもしれない。あるいは、既に先を行く人を訪ねてもいいかもしれない。自分から動くべきときなのかもしれない。