天の邪鬼のいなし方

 あるときを境に寒さは消えて、桃と桜と梅の花が見られるようになった。日当たりの良い樹には若葉が出はじめている。畑の緑は蘇り、歩けば野鳥にも出くわす。何十回も繰り返してきた春だ。もう新鮮味など無いはずなのに、何かが始まろうとする空気は悪くないと感じる。

 自分が子供の頃、やりたくない事があるとき、その場で屁理屈をこねて反論していたように思う。天の邪鬼というやつだ。なぜ、そんなことになるのだろうか。そして、どのようにすれば解決するのだろうか。わかりやすくするために、いくらか脚色を加えて、過去の自分を思い出してみよう。

 小学三年生くらいのころ、両親は僕に向かって「塾に行ってみないか」と提案してきた。僕は、言いようのない恐怖を感じる。それは「塾という未知の場所に一人で行くのが怖い」という感情だ。しかし、強がりや意地が働いて、自分ではその感情を分析できない。

 なんとかして行きたくない理由をひねり出す。「本当にその塾でいいのか。詐欺じゃないのか」「塾に行くくらいなら自分で勉強する」「塾に行かなくてもテストで点は取れる」「塾でやることはどうせ学校でやるのと同じだ」と思いつく限り並べ立てて抵抗する。うんざりした両親は「天の邪鬼はやめて、とにかく言うことを聞きなさい」と一言。あとは嫌がる僕を車に押し込み、引きずるようにして塾まで連れて行く。そこで場面は終わりだ。その後泣いて暴れたか、従順に塾に通ったかはわからない。

 上の例から言えることは、天の邪鬼が強引な理由付けをするとき、それは隠れた本心があるということだ。それは自分の弱みを守るためかもしれないし、誰かを庇ってそうしているのかもしれない。そこには鍵がかかっている。特に、子供の場合は内面が見えない。

 そんなとき両親がやるべきことは、なんだろうか。試しに、屁理屈に付き合ってやるのが良いかもしれない。上の例なら、本当にその塾で良いことを証明する。他の塾と比較検討し、学校へ行くよりも優れた実績があるか調べる。加えて、テストの点には現れないような学力を身につけることの大切さを説く。こうして即席の理由をひとつひとつ潰していく。そうやって答えが出るまで粘り強く話をする。

 上のやり方は誠実ではあるけれど、あまり良いやり方ではないだろう。とてつもない時間がかかる。もっといいやり方は「いいから試しにやってみよう」と誘うことだ。他の塾より効率が悪いかも知れないし、行っても行かなくても成績に影響はないかもしれない。お金はかかるし、送迎が大変で迷惑をかけるかもしれない。成績が伸びなくて嫌な思いをするかも知れない。それでも「まあ、別にいいじゃん」と。だめだったら辞めればいいのだから。理論武装を解除するよりも、許す、どうでもよくさせるというやり方。ここまで譲歩されたら「それでも怖いからやだ」という本音を引きずり出せたかもしれない。それが、天の邪鬼のいなし方だ。

 こんな話をせずとも無理やり塾に引っ張っていったら、すぐに友達ができて全てがうまく行った、なんてことも起こりうるだろう。たぶん世の中にはそういう例もあふれている。だから子供相手には「とにかく強引にやる」というのが悪くないやり方なのかも知れない。それでも未来のことを思うなら、天の邪鬼をいなして、即席の理由に惑わされず、自分の感情を探る体験をして欲しいとは思う。

創作の糸口

 あれから冗談みたいな雪が降り続いて、道路も屋根も真っ白に染まった。氷の結晶が車のガラスに張り付いている。滑って尻餅をついた。素手で雪に手をついたら、痺れるような冷たさだった。そんな寒さが収まってきた頃、何かを作ろうと決めた。何度もくじけているから、決意と呼べるほどのものではない。忘れた頃にぶり返す持病みたいなものだ。とはいえ、ひとまず用意した白紙のノートを目の前にして、さて何から始めようか、ということを考える。糸口は、いくつかある。

 一つ目は、「馬鹿野郎」から始める方法。言い換えると、不満や怒りなど負の感情から辿っていく方法。たとえば昔、僕の父親は飲んだくれて大声を出したり、襖に穴を開けたりしていた。それが幼い自分にとっては恐ろしく、成長してからは忌々しく思った。絶対にこんな人間にはなるまいと強く思った。そういうとき、自分の正しさを主張したくなる。それを物語の発端にしよう。

 父を思い切りなじって、改心させるにはどうすれば良いか。これを課題とする。課題が決まると、その解決策を考え始める。答えを導くには詳しく課題を分析する必要があるだろう。なぜ酒を飲むのか。暴れる人と暴れない人がいるのはなぜか。暴れているということを自覚しているのか。医者の見解はどうか。同じような家庭はあるのか。物に振るう暴力と人に振るう暴力の違いは何か。飲む側の主張は何か。いくつかの話題があふれてくる。それらを握り固めて味付けをすれば、なにかそれらしい物語ができるだろう。

 二つ目は「既に面白い」から始める方法。昆虫、海洋生物、遺跡、有名人、趣味などを中心に据える。たとえば、マンボウについて。見た目が既に、面白い。何を食べてるのか。なんで平たいのか。天敵やライバルはいるのか。身体の中身はどうなってるのか。その細部を勝手に思い描く。なにせ、既に面白いので、書くことがなくて困ることはないだろう。それでも、ありふれているように思われるなら、少し面白い嘘を加えてみる。空を飛ばすとか、サイズをミクロにするとか、あるいはもっと大きくするとか、石の皮膚を持つとか、人語を理解するとか。

 面白い存在。そこに導くのを課題にする。鯨サイズで石の皮膚を持っているマンボウを登場させるにはどうしたら良いか考えてみよう。鯨サイズということは天敵が存在しないということだ。石の皮膚は過酷な環境から身を守るためだろう。たとえば砂嵐のような細かい粒が飛び交っている場所に生息しているのだ。そんな砂嵐の出るような地方には食べ物はほとんど無さそうだ。だから、ほとんど冬眠していて、光合成のような手段でエネルギーを得ているのかもしれない。寝ぼけた感じがマンボウに似合いそうだ。こんな雑な連想ゲームでも、まあ少しは舞台らしきものが姿を作り始める。そこで何が起きるのかはわからないが、既に面白い存在があるので、何かが動くだろう。

 こうして糸口を考えていくと、僕の場合は、何かを狙ってそこにたどり着くために物語を作る、という考え方をしているようだ。上では二種類しか挙げなかったけれど、それは願望だったり、苦しみを克服することだったり、何かを模倣することだったり、現実問題の置き換えだったりする。これと相反するやり方もあるだろう。どこへも行こうとしていない物語。ゴールは一切定めないが、とりあえず面白い方に転がしてみる、というアドリブ走法。夢のような脈絡のない物語。ずっと昔にはそういうやり方をしたこともある。

 古道具を取り出して悦に入ったところで、次は足場を作ってみようか。

雑感想「神の子どもたちはみな踊る」

 村上春樹の短編集を読んだので、いつにもまして雑な感想を書き並べることにする。

 最初は「UFOが釧路に降りる」から始まる。読み終わった時「は?」って感じのする話。何も起こらなかった。男が離婚して、傷心を癒すために釧路に向かい、女とホテルに泊まる。けれども、興奮できない。という、それだけの話。なんだこれは。打ち切り漫画より筋が通らない。好意的に解釈するなら、話の筋はまったく意味がなくて、話を構成しているパーツを眺めて楽しんでね、という狙いがあるのかもしれない。

 出鼻をくじかれたけれども、気を取り直して次の話「アイロンのある風景」安心。大丈夫これなら読める。むしろ好きだ。何が好きかって、焚き火の話をするところ。木を集めて火をつけるという、それだけの行為に秘められた特別さ。暖を取るとか、ゴミを燃やすとか、そういうことじゃない、かすかな特別。人が目を向けないものとじっくり向き合って、何かを引き出そうとする行為が、とても良い。

 次はタイトル回収の「神の子どもたちはみな踊る」これは、なんというのか、刺激が強い。いきなり、美人の母親が宗教に入ってもてはやされて、父親は不明。子供の方も母親に欲情して、それを抑えるためにセックスフレンドを探している。おちんちんが大きい、みたいなフレーズを惜しげもなく投入してくる。一歩間違ったらただの下劣な話になりそうなんだけども、それが不思議なもので、いつの間にか爽やかな方向へ収束している。凄い。

 後半を開くのは「タイランド」これは良い話だったと思う。三十歳くらいの女医がタイに行って、特別な運転手に出会う。死産でいろんな深い後悔と苦しみを抱えて生きている人が、紳士的な謎めいた運転手に導かれて、ゆるやかに立ち上がるという感じ。神秘的で、励まし力の高い作品。スピリチュアルやね。

 次も励まし力の高い「かえるくん、東京を救う」悪くない感じ。家に帰るといきなりカエルがいて「ぼくが東京を救うので、あなたはどうか僕を応援してください」みたいな感じのことを話す。何が良いかって、丁寧に「貴方が必要だ」と言ってくれるのが、ただ単純に嬉しい。「あなたが影でがんばっているのは知っています」みたいな頼み方をされたら嬉しいだろうね、本当に。という、それ以上のことはあんまりなにもなかった。でも、その暖かみは心に響く。

 最後の締めは「蜂蜜パイ」大学生のときからの友人関係だった三人なんだけれども、男女男だったために、ペアが出来てはじき出された主人公。売れない小説を書きながら希薄に生きている。その後ペアは離婚し、三角関係が動き始める。という昼ドラみたいな物語。「お前不幸ヅラしてるけど幸せやんけクソが」みたいな感じの嫉妬心をかきたてられた。そこに描かれる素直じゃない関係の幸せ、みたいものが光を放っていて、眩しくて溶けてしまいそう。

 まとめ。読む前に「この作品は阪神淡路大地震をテーマにしてなんたらかんたら」というレビューを見たせいで、少し身構えていたのだけれども、実際読んでみると震災、全然関係なかった。まあ、それは読みが浅いだけで、本当は深い何かがあるのかもしれない。でも、書かれてないことを読み解こうなんてのは、よほどの暇人しかやらないんではないかね。という皮肉はさておき、思ったよりもずっと楽しめた。短編集というのは、色々な話が詰まっているので、少なくとも一つくらいは好きだといえる作品が見つかる。今回で言うなら「アイロンのある風景」が一番好きだったかもしれない。でも、他の話も全く嫌いということはなく、どれも「ああこれは」と感じさせる部分はあったと思う。なんだ適当な感想だな…。とにかく、しばらく読むのことのなかった「村上春樹の作品って、こんなの」が言える材料を手に入れた感じがして、そういう良さを吸い取っていきたいと思う。

 余談。むかし村上春樹を何冊か読んだ時に「なんでこの人、勃起とかセックスとか唐突に出してくるの?」と思っていたけれども、やっぱりこの本を読んでも同じ印象があった。で、改めて考えてみると、それってやっぱりエンターテイメントなんだろうなと思う。性というのは普遍的に興味を引くものだから。ただ、村上春樹が特殊なのは、そういう性を日常に溶かし込もうとしているところかもしれない。自然体でいきなりエロいフレーズを使っていく、みたいなこと。逆に言うと、性に関することって、何で忌避されるのかって言いたいのかもしれない。

背理法と産婆術

 何日も雪が続いたが、ここは雪国ではない。積もった雪が日をまたぐことは稀だし、三日もすればかすかなものになる。いまでは、降り注ぐ雪の粒も、数えるほどしかない。花壇を見れば、葉牡丹が咲いている。淡いクリーム色と濃い紫のコントラストは、どこか大人びた印象があった。

 数学には、背理法というとても有名な証明方法がある。ある仮定から出発して矛盾へと導くことで、その仮定が成立しないことを示すものである。これは、とても意地悪な証明方法だと思う。なぜかというと「あんたの言ってることはたぶん間違いだけど、まあ正しいと仮定して話を進めてみようじゃないか」という文脈で使えるからだ。たとえば、ミステリーでは次のような問答をよく見かける。

(容疑者)「私は殺していない!」

(刑事)「ああそうかい。でも、そうだとしたら、誰が殺したっていうんだい?」

(容疑者)「そんなのは知らない!」

(刑事)「知らないって言ってもねえ。あの時間、アリバイが無かったのは、あんただけなんだよ」

 「容疑者が殺人を犯していない」と仮定すると、殺人可能な人物が存在しなくなる。しかし、被害者は殺された。これは矛盾している。つまり「容疑者が殺人を犯していない」という仮定が間違っているのだ。そういう論法である。やっぱり、意地悪な感じがしないだろうか。

 証明法ではなく、議論で相手を説得する方法として、産婆術というものがある。これは、議論を戦わせている時に、自分の主張を一旦引っ込めて、相手の主張を思うとおり喋らせるというものだ。喋りがなめらかになるように、出産に立ち会う産婆のように優しく接する。相槌を打ち、質問をなげかけ、強く否定しない。こうすることで、相手の主張の妥当性を探るものだが、見方を変えると相手が自滅するのを待つ意地悪な作戦でもある。たとえば、会社でベテランと新人が下のような会話をするかもしれない。

(新人)「電話番しろって言われたんですけど、事務員さんに任せるべきですよね」

(ベテラン)「うん? まあ、そうかもしれないね」

(新人)「電話慣れしてるし敬語も上手だから、印象も良いじゃないですか」

(ベテラン)「言えてる。でも、事務員さんも席を立つことがあるんじゃない?」

(新人)「それなら、次に電話慣れしている人、二番手がいればいいんですよ」

(ベテラン)「そうだね。とはいえ、二番手だって、トイレとかありえるだろう?」

(新人)「だったら、三番手も決めておけば安全でしょう?」

(ベテラン)「基本的には、そうだと思うけど、皆でランチに出かけちゃうかも」

(新人)「うーん・・・」

 結局、ベテランとしては、新人に電話番を任せたいのだが、直接的に「お前がやれ」とは言っていない。粘り強く議論に付き合っているように見える。しかしよく見ると、新人の主張をほとんど受け入れていない。その上、新人が電話番をやるべき理由を、一つも述べていない。結論ありきで、相手が折れるのを待っている。そう捉えると、意地悪なように見えないだろうか。

 どちらも「ぐうの音も出ない状態にする」技だと自分は考えている。それは、決して相手に良い印象を与えるものではない。知らず知らず、こういう技を使って相手をねじ伏せようとしてしまうことがある。気をつけよう。

雑感想「悪の教典」

 さて。悪の教典の話。これはどうも、気が乗らなくて読むのに3週間くらいかかってしまった。なんで気が乗らないかってそれは、主人公の蓮実聖司がとんでもないサイコパスだからだ。容姿や振る舞いは魅力的だが打算的で、他人を陥れたり裏切ったりすることにためらいがない。しかも頭も切れる。過去に数え切れないほどの人間を謀殺して逃げおおせている。教師でありながら学校に盗聴器を仕掛けて人間関係をコントロールしたり、生徒と肉体関係を持ったりやりたい放題だ。そんな奴の主観視点で話が進むのだから、気分が悪くなる。次はあいつが邪魔だとか、あいつを俺のものにするとか、こうすれば容易く信頼が得られるとか、そんな独白ばかりだ。どろどろの邪悪な内面を取り繕って、社会に溶け込んでいる。うまくいってしまう。そんな話が前半。そりゃあ、読んでいて疲れる。それでも読み進めていくと、後半は熱が入ってきた。

 蓮実は、とある問題を隠すために一人二人と殺人を犯す。それに気づいた生徒をも殺す。それを繰り返しているうちに、逃げ切れないと判断した蓮実は、とうとうクラス全員皆殺しを決める。四十人もの人間を、一人も逃さず、一夜で殺す。その困難さに、かえってやりがいを見出すあたり、相当狂っている。ヤバイ。今まで格好つけていたキザな色男が、壊れた殺人鬼になる。いや、もとより狂ってる感じはあるけども。

 そして生き残るために戦う生徒との攻防。これが一番のピーク。面白い。運動部の数人が逆襲に行ったり、待ち伏せをするアーチェリー部がいたりする。罠を仕掛ける生徒もいれば、自分が生き残るために閉じこもる生徒もいる。頭がおかしくなる生徒もいるし、蓮実を信じてあっさり殺された者もいる。とにかく人が死ぬ。冗談みたいに死にまくる。普通のテロとか銃乱射事件というのは、死傷者も多いが、逃げ出す人もたくさんいる。それなのに蓮実の檻からは、逃げられない。逃げれば殺されるという刷り込みといろいろな仕掛け。絶対お目にかかりたくないけれども、とにかく圧倒されて引き込まれる。

 なるほどこれがやりたくて400ページも前半読まされたのかと。たしかに、いきなり後半だけ読んでも、この急展開に馴染めないかもしれない。前半でじわじわ慣らされたものが、徐々に壊れていって最後に決壊するほうがそれらしい。けれどもしかし、全然気持ちよくはない。「早く終わってくれ!」そう思いながらどんどん読み進めた。これはなんだ。凄いけど汚れてるというか。道徳的にマズイ感じのこれは。ゲームやりすぎて犯罪犯すとかそういう説があるけれども、こういう小説のほうがよっぽど、どぎついんじゃないか。

 刺激さえあれば、何でもありなのかという疑問が湧く。マルキ・ド・サドの著書とか、発禁になるぐらい残酷で滅茶苦茶なエログロだと聞いたこともある。家畜人ヤプーとかあらすじ読んだだけで逃げたくなる。だから悪の教典は、まだ入門レベルなのかもしない。この本で起きていたことは壮絶でグロテスクだけれども、生々しさという点では、それほどでもない気がする。エンタテインメント感があるというか。最後の方は読者サービスしてるんじゃないかってところもあった。今まで容赦なく殺してきたのに、生徒と会話して、洒落を交えながら殺すとかね。

 ちょっと強引に話を戻してまとめると、悪の教典、面白い。けど人間らしさとかそういうのが無いので、自分は好きじゃない。でも、作品のパワーって言うかそういうものが凄まじいのは確かだ。ただの架空の話として「こんな奴いたら怖いよねハハッ」くらいに割り切って読めない。それぐらいガツンと来る感じ。評価を受ける作品というのは、こういう当たりの強さがあるんだろうなあと。自分で何かを書こうと思っても、どうしても踏み外すのが怖くなってしまうから、こういう話を書き上げる人は純粋に凄いなと思う。

飲み会で考えること

 霜の降りるあぜ道。マフラーで口元を隠した中学生とすれ違う。昔、通っていた弁当屋がいつの間にか消滅していた。ポスターや看板が消えて、制服を着た店員の姿もない。ただの建物になった。家に帰って掃除をする。左手の棚に、いつか作った星型多面体や、正八面体が飾ってある。余った折り紙で作ったものなので、色合いは悪い。写真を一枚だけ撮って捨てた。悲しいことに、ゴミ箱の中では鮮やかに見えた。

 最近、太ったと感じる。身体的にも精神的にもだ。酒を飲んで、うまいものを食って、好き勝手話して、わがままになって、げらげら笑って。そういう時間が増えた。今月だけで、四回も五回も飲み会に行った気がする。今まで、宴会に対して距離をとって冷めた目で見ていたけれど、うまく話ができれば、気持ちのよいものだとわかった。ただ、話が途切れていたたまれない気持ちになることがある。プログラミングの技術を磨くのと同じように、会話の技術を磨くことはできないだろうか。

 話すことがない時に、よくやっていたのは「何でもクイズ」だ。どこからでも良いので疑問を拾ってくる。たとえば「横断歩道は塗りつぶせばいいのに、縞模様なのはなぜだろう?」とか「なぜカツ丼はトンカツ丼ではないのだろう?」とか「鍋って料理なのに、具材を何一つ言及してないのはなぜ?」とかそんな具合だ。もし誰も乗ってこれなくても、自分が想像している間は楽しい。奇抜な回答が出てきて話が広がることもある。

 話を広げるために「今まで一番○○だった事はなんですか?」という質問を時々していたが、これはあまり良くない作戦だった。なぜなら、過去の体験から「一番」を引っ張り出すのはそう簡単ではないからだ。面白い話は出てくるかもしれないが、考えている間に話題が止まってしまう。たとえば、漫画が好きだと言っている人でも、不意に「一番好きな漫画」を聞かれると答えられない。「最近読んだ中で」という制限をつけてやるとまだ答えやすいが、それでもレスポンスは遅くなる。

 逆に聞かれる側の負担が少ないのは「週末は何をしてましたか?」みたいな質問だ。さほど面白みは無いけれど、思い出すのがたかだか一週間以内のことで済む。ここで、何らかのイベントが掘り当てられれば話は広がる。ただ、話題にする期間が短いので「家事をして寝てたら終わった」と空振りに終わることも多い。それでも、とりあえずはコミュニケーションが発生するので無難な一手だ。

 同席するメンバーが決まった時点で、注文や何やらの間に質問を準備しておくという手がある。たとえば、部長や社長が対面に座ったときは気楽になんでもクイズをするわけにはいかないので、仕事の新しい企画について聞いてみたりする。不満や相談事をぶつけるのも良い。出張から戻ってきたときは、出先の話を尋ねれば良い。取締役のような経営陣は仕事熱心なので、嫌な顔をされたことはない。

 さて、あれこれと考えてきたけれど、実のところ宴会に行くことには未だに抵抗がある。飲んで食べて騒ぐ楽しい時間があるのは事実だ。けれど、すべてが終わった後。恐ろしいほど醒めた気持ちで、暗い道を歩くその時間が慣れない。

​ 雑感想「正解するカド」

​ 正解するカドを5話までみた。政府の役人、ネゴシエーター真道の物語。異世界からやってきた二キロメートルの巨大なキューブに対して、日本政府はどのように動くかという話。でかいキューブが出てくるところはうおおっとなるがそこからはかなり地味な展開が続く。そんななかで呼び出される科学者の品輪博士という女の子が見ていて面白い。好奇心旺盛で早口に喋るが、言っていることの端々に知性を感じさせる。そしてCV釘宮理恵。良い。キューブに飲み込まれた人は生きているか、どうやって破壊するか、というあたりの流れるような分析・推論・実験のあたり、かなり好きである。まあそれは本筋じゃない。そういう尖った人物はこの話の中ではかなり異質、例外的な存在だ。他の登場人物は真面目で優秀な人たちがちょっとした人間らしさを見せながら、事態の収拾へ向けて力を尽くす。そういう意味でこれはやはり、シミュレーションなんだろうなあと思う。リアルならどうなるか、と言うところを考えて演じているシミュレーション。キューブの中から出てくるヤハクィザシュニナという異星人、これもまたかなり、なんというか慎重に造形されたキャラクターで、ぶっ飛んだ設定は見られない。ただ考え方、持っているテクノロジが人類をはるかに凌駕していて、一つ間違ったら世界が滅茶苦茶になるだろうなという空気を漂わせている。けれど彼自身は超然とした知性ある神様のように描かれている。もしかしたら「現代に神様がおりてきたらどうする?」という思考実験なのかもしれないね。ともかく話を破綻させるような人物は絶対に出さんぞという感じ伝わってくる。

 絵作りの話も少しすると、見た感じ3Dモデルを使った今時のアニメという感じ。たぶん手書きはしてないんじゃないかな。エンドロールにUnityの文字が出ていたからきっとキューブやその他の演出面でそう言った技術が使われているのだろう。キャラクターは総じて地味目だけどスッキリしててとても見やすく好感が持てる。萌え萌えしてないし、ファンタジーなのは異星人だけなので老若男女におすすめできる。オープニング映像はとてつもなく美しい。荘厳な音楽もいいし、歴史とか世界とか生物とかそういうものを象徴する映像の中に、キャラクターをそっと置いてるだけの映像が良い。動き過ぎず感覚だけに訴えてくる感じのそれ。予算なかっただけかな。でもこの映像作品に関してはピタリはまっている。タイトルロゴがどんと出てきたときにおおおっとなる感じは間違いなくある。

 で、面白いかどうかっていう話をすると、難しい。つまらないことはない。だけど、ハラハラする感じはあまりないよね。何とかなるだろう。何とかしてくれるだろう。というのが登場人物たちの人柄から読み取れる。それは現実ならとても良いことなんだけど、物語的には案外むずかしいところだ。ひとりヤバい奴がいて、話をかき乱してくれてもいいんだけどなあって思ってしまう。あと真道さん真面目すぎるのでロリコンとか犯罪者とか何か欠点ぶち込んでもいいんじゃないかな。まあそれは冗談としても、とにかく平和的に穏便に物事が進んでいく。一応、国連がゴネてざわつく場面もある。ヤハクィザシュニナとその技術を引き渡さないと、国連決議で経済制裁やら武力鎮圧をちらつかせるとか、そういう場面。現実的に見て深刻な場面を描いているのだろう。けれども何というか僕個人は、へえそうなんだと他人事に見ていた。国の危機というものに関してとても鈍感なのは大人としてダメなのかもしれないが、個人の悩み、苦しみ、情熱、怒り、喜びそういうものの方がぐっと引かれるんではないかなと想像する。だから「ヤハクィザシュニナって何? どうしたいの? どうなるの?」というところが焦点になってくる。それが知りたいと思ってる中で、ゆっくり慎重に周りの国も配慮しながら交渉していくって言うのは物足りない展開なわけだ。ただひとつ言えるのは、こんな風にあれこれ書きたくなるような話の材料としては優秀な作品ではないかなと思う。どんなに面白くても、ぱっと思いつくことが派手で面白かったねとかキャラ可愛かったねとかしか出てこない作品だってあるわけで、そういう作品とは一線を画している。薄味だけど知っていたらドヤれる感じの佳作だと思う。