退職

 辞めることは少し前から心に決めていたのに、それを宣言しようとするたび、喉が詰まったように言葉が出なくなった。季節が変わって、新しい仕事が始まろうとしている。何も言えないまま、キックオフ会議に参加してしまった。この後ろめたさ。すべてが明るみに出た時、どんな顔されるのか想像するとやり切れない気持ちになる。呆れと失望。そういう感情を向けられるのが恐ろしかった。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかない。隙を見て、小休止している先輩たちに、そっと告白した。困惑した様子だったけれど、ふたりともすぐに「仕方ないね。頑張ってね」と言った。

 そのことが上長に伝わって、個人面談が行われた。辞める理由について話をしたが、まとまりきらない長話になってしまった。今でもそれを上手く説明できない。今思いつく中で、最もわかりやすい表現をするなら「自分はもっと凄い仕事ができると思ったけれど、会社はそういう仕事を与えてくれなかった」ということになるだろうか。いや、やはり一言で表せるものではない。もっと拗れて、行き場のない不和があった。

 数日後、いつものように仕事をしていると社長に個室へと呼び出された。面談というよりも通達のようなものだった。今このとき退職することの愚かさを指摘された。そして社長は断言した。「君は、失敗するだろう」なんとか体が震えないように堪えたが、一切の反論はできなかった。社長が去った後も、言葉は残った。

 翌日、メールを書いた。心は恨みがましく濁っているのに、良い子を演じる。自分を貶めて、社長の顔を立てるような文章を書いた。そういう体裁を気にするところが、とてつもなく愚かだ。建前だけで生きている。空虚。率直に「辞めたいからやめます、ごめんね。もうあなたとは関わりたくありません」とだけ書いたほうが楽なのに、長々と言い訳を書いた。返信もまた長文だった。これからの可能性について、まだ一緒にできることがあるという社長からのメッセージだった。大人は複雑すぎる。心の宿らない、しかし丁寧な返事を書いた。そうして、退職願いは受理された。

 それからの日々はほとんど覚えていない。ただ一人でがむしゃらにプログラミングした。上長の配慮で、そういう仕事をもらったので、ほとんど誰とも関わらずにずっとコードを書いた。ひとりでいる時間は静かだ。未来を憂いることもない。そういえば、初めはそうだったなと思う。日が暮れるまで、与えられた課題をこなしていた。文字通り夢中で、何も考えずに。そうして、空っぽの頭で明日を迎えることができた。

 すぐに最終出社日になった。いままで関わってくれた人たちに挨拶回りをした。皆、穏やかだった。笑って送り出してくれた。「お世話になりました」と言うと「お世話していないよ」と苦笑いする。自分は、深い考えもなしに、この人達と歩むことを止めてしまった。この縁を、手放してよかったのだろうか。わからなかった。すべてが終わった後、誰もいないベンチに腰掛けた。晴天。祝いの花の香り。どんな学校よりも長い期間、ひとつの職場で働いていたんだ、と気づいて寂しくなった。