プレゼンつっこみおじさん

 人のプレゼンを何度か聞いてきて突っ込みたいなと思いながら結局言えずじまいのことがたくさんあるので、ここに書き並べることにする。

 まずひとつ目は、プレゼンのタイトルについて。タイトルは自由につけてよいと思うが、最も無難なのは「私と○○」だと思う。○○のところには、趣味とか技術とか発表内容をいれる。これが無難な理由は、発表内容がどんなものであっても「個人の視点でみた○○との接し方」を語っているのだから、聴衆が納得しやすいということだ。とはいえ、こういう無難なタイトルは刺激が少なくてつまらないと言われてしまう可能性は避けられない。

 刺激的・挑発的なタイトルをつけるのも悪くはない「お前らの○○は間違っている」とか「○○になるための10の方法」とか「まだ○○で消耗してるの?」とか。ただその場合、聴衆は「おう、上から目線から来たなオイ、少しでも間違ったことを言ったら叩きのめすぞ」と身構えるので注意が必要だ。けれど、そんな風に感情を揺さぶるタイトルのほうが、議論がヒートアップして面白くなるのかもしれない。

 二つ目は「その言葉いる?」って話。いやまあどんな言葉を使うのも自由なんだけど「平仄をあわせる」とかいくらでも簡単に言えそうなことをわざわざ難しくしたりとか。あと意味の広い言葉をホイホイ使うのも気になってしょうがない。「社会実装」とかなんやねんって。関西人でもないのに関西風ツッコミしたくなるくらいにはソワソワしてしまう。そらまあ想像できるよ。人は想像する生き物なので。でもなんか各自想像して話を進めるのって間違った方向に進みそうな気がするので、やはり避けるべきことなのだと思う。

 三つ目は、何かを比較するときについて。プレゼンでは「A より B のほうが良いです」と主張することがよくある。たとえば Safari より Google Chrome のほうが便利ですとか。犬より猫がかわいいですとか。そういう風に比較をするときは、まず A と B は比較可能なものにしなければならない。

 何をそんな当たり前のことを、と思うかもしれないが、意外とできてない。「絶対にそうしろ。振り返り悔改めよ」と声を荒げたくなるくらいには、できてない。できてない例を言うなら、移動手段を比較するときに「徒歩」と「自転車のBROMPTONに乗る」とかを比べだす人がいる。わりといる。普通に考えれば「徒歩」と「自転車」で比べるべきなのに、片方だけやたら詳しい。おそらくその人はBROMPTONの自転車に乗っていて詳しいから、ついそれを話してしまうのだろう。犬猫比較の例もそうだ。「コーギーは猫よりかわいい」とか言い出してしまう。気持ちはわかるけど、おかしいことに気づいて。

 そして A と B が比較可能になったら、かならず表を作れ。せっかく比較対象を持ち出したのに比較しない人がいる。たとえば「価格を見ると B より A が安いです」と入った後に「使いやすさの点でいうと A が使いやすいですね」みたいな物言いだ。聴衆は心の中で叫んでいる「B は使いにくのか? どっちやねん」都合の良いポイントだけ比較して A を売り込もうとしているのかと勘ぐってしまうし、とても聞いていて落ち着かない。

 最後はドンデンドンデン返しについて。ここで言いたいのは「主張を何回も反転させるな」ということだ。思考の流れとしてはスムーズだったとしても、主張をめちゃくちゃかき回す人がいる。たとえば次のような感じだ。「最初は A と思ってました。しかし B ということがわかり、A ではないと思いました。ここで実験を試みて B が疑わしいということがわかりました。それを突き詰めることで、やはり A であるという結論に至りました」あーはい頑張りましたね。と言いたくなる。いやまあ頑張った物語を伝えたいならそれで正解だしドラマチックで面白いんだけど、あなたが伝えたいのはドラマじゃないでしょ。的な。いやまあ楽しさも大事だけどさ。

 どうしたらいいかというと「いろいろ実験した結果 A ということがわかりました。B と思うかもしれませんがこれを否定する材料はこれこれです」みたいな展開にすればいい。そうすればさらなる否定材料 C D E が出てきてそれに立ち向かっていくようなストーリーにもできる。こういうの、本当にこだわらない人も居て、発表者の気持ちをトレースしたいと考えてる人にとっては、ドンデンドンデン返しは、まるで少しも気にならないようだ。

 こういう感じで本当に色々と悶々としている。探せば多分もっとあるはず。でもそういう指摘ってだいたい相手を萎縮させるだけで嫌われるので、あまり言わないほうがいい。なぜなら直さなくても、中身は八割がた伝わるから。あと発表した人が議論したいのはそういう部分じゃなくて中身の話だから。そう、普段は口を閉ざしておくので、書捨ての日記くらいは。

感情を分析しろ→しなくてもいい

 12月は一人でアドベントカレンダーをやるつもりだ。 https://adventar.org/calendars/3628 どうせ記事はここに書くので、上のURLはなんの意味もない。モノクロの例のアイコンが並んでいる姿はなかなか不気味である。

 なぜそんなことをしようと思ったのかというと、一つは実験だ。最近ブログを書くときに時間をかけすぎる傾向がある。練りに練ったものを送り出そうとして、完結しないままお蔵入りするのだ。自分の過去を振り返ると、ブログ記事に限らず、いろんな創作物がそのような傾向にある。これは良くないことのように思われるから、たとえ内容が薄く、推敲の甘い文章であっても世に放り出してみるのはどうか、と思ったのだ。考えをすばやく書き出していく瞬発力が鍛えられるに違いない。もう一つは宣伝だ。何か転職活動をしようとか、文筆業で食っていこうとか考えたときに、そういうことができます。という実績として役立つかもしれないと考えた。

 宣伝はさておき、書こうと思ったまま、まとめられていないことについて少し話をしよう。それは、感情の分析に関することだ。たとえば、怒りを分析しよう。あなたが書いた傑作プログラムを見た上司が「そのコード、ひどいもんだ。どれ、俺に貸してみなよ」と言ったとしよう。あなたは思うはずだ。「ふざけるな。俺がどのような試行錯誤と熟慮の末にこれを書き上げたのかも知らないくせに、勝手なことを言うんじゃねえ」その上で、もしそれを口に出したとしたら、二人は殴り合いの喧嘩になるだろう。そういうときに、感情を分析する力があれば、争いが生まれずに済む。

 すぐさま殴り合いを始める前に、怒りを感じたその瞬間に自らに問いかける。「なぜこんなにも腹が立つのか?」それは、自分が長い時間を費やして、どうにか動くところまでこぎつけたプログラムを貶されたからだ。決して良いプログラムではないにしても、努力の末に書き上げたものだ。だからそれを否定されたくない。こうして感情の原因を知ることで、怒りを鎮めることができる。そうすれば、あとは上司がプログラムの品質を上げてくれる、という良い結果だけが残るだろう。

 こんな風に、感情を分析するということは、良くない感情を鎮めるのにとても役立つ。嬉しい感情を分析すれば、自分の好む事柄を見つけるのに役立つだろう。ごく当たり前のようであるが、なかなかそれを意識的にするのは難しい。だから僕の場合は「不満です」とか「腹が立ちます」みたいなことをまず表明することにした。「理由は今から考えます」みたいにしてあとづけする。そうすれば、相手をびっくりさせてしまうかもしれないが、殴り合いをせずに済むし、アドバイスも受けられる。

 ここまでのことを「すごくいいことを発見したな」と思っていたことのだが、最近、それが少し逆転し始めた。感情を分析すればいいというものではない。分析しなくていい感情は、存在する。それが何かと言うと、たとえば「友達が結婚したのが悲しい」という気持ち。これを分析してみるなら「友達が結婚したことによって、その友達と過ごせる時間が減ってしまうだろう」という推測による悲しみ。「自分が結婚できない中で先を越されてしまった」という悲しみ。「結婚できるはずないとある意味見下していた友達が結婚できてしまった」という悲しみ。とにかく、いろいろと好ましくない考え方が溢れ出てくる。自分のくだらなさとか、いたらなさというのが湧き水のように染み出してくる。なんだそれは。意味あるのか。意味なくないか。というのが逆転の始まりだ。

 そういう風に、己の醜さがあらわになるだけの自己分析は、たぶんやるべきでない。わからないままでいい。実際、わからないままでいいことは、たくさんある。たとえば、C = A or B という論理式について、 A が真なら、B の真偽を問わず C は真となる。どんなに複雑な式であっても、それは同じだ。X = A and (B or (C and D) or E) とかの難しそうな式でも A が偽なら、ほかの B,C,D,E にかかわらず X は偽になる。わからないままでも、話が進められる。わからないままでも、わかるところだけ式を変形できる。そういう論理的な性質が、感情の分析にも使えるのではないだろうか。

 自分のことを細分化して細分化して、分析して明らかにしようといつも考えてきた。DNA解析みたいに。けれども、DNAは G C T A の四種類の塩基がただひたすら並んでいるだけだ。そこから得られる知見もあるだろうが、そこからは決して得られない知見もある。分解せずにそのままでいいじゃないか。辛いとか悲しいとか、とりあえずそう感じるままにしておいて、原因の解決も、改善も何も考えずに、ただ心踊るような音楽と、美味しい食べ物でも用意すればいいじゃないか。

警察官をクビになった話の感想

警察官をクビになった話 を見た。あらすじは下記のようなもの。

 警察官になることを夢見る少年がいた。彼は努力の末に警察学校に合格する。しかし、何かと要領が悪い少年は、訓練で周りの足を引っ張ってしまう。それが何度も続くうちに、同級生からいじめを受けるようになった。教師も見て見ぬふりをするどころか、いじめに加担するようになっていく。寮という閉鎖的な場所で、暴力を振るわれ、罵られる日々が続く。

 状況は改善の兆しを見せない。その一端には、彼自身の能力不足があるのだろう。わかってはいるが、もともとの夢であった警察官を諦めることができない。彼は耐え粘り続ける。虚しい努力が続く。

 そんな努力を意に介さず、むしろ疎ましく思った教師たちは狡猾な策略を仕掛ける。親を呼び出し悪し様に言う。指導と称して食事時間を奪う。連帯責任で恨みを買うように仕向ける。

 それほど疎まれているのだと痛感した少年は絶望し、退学の道を選んだ。無能の烙印を押され、心の傷が癒えないまま職を求めるが、失敗し落ちこぼれていく。

 弱者を守るべき警察官が、弱者を虐げる矛盾の恐ろしさ。そして、夢に縛られる苦しみ。報われない努力の虚しさ。壮絶というほかない。

 少年はいったいどうすれば良かったのだろう。いじめに対してよく言われるのは「逃げろ」というアドバイスだ。なるほど、そうかもしれない。一方的で理不尽な攻撃に対してできるのは、それぐらいのことしか無いのかもしれない。

 ただこの場合、逃げることは、夢が断たれることを意味している。これまで積み上げた努力を放棄することを示している。過去の自分を否定するのは容易なことではない。知った顔をした大人が、そんな辛い決断を促すのは無責任な言葉のように感じる。

 でもそのままじゃ駄目だということは本人も感じているだろう。だから、警察官になれないとしたら、何をするのかというのを考えてもらうのがいいかもしれない。それ以外のやり方で、夢のいくらかを満たせる仕事。いや、仕事でなくたっていい。ボランティアか、あるいは趣味か。見苦しかったり、効率が悪かったりするかもしれない。誰からも褒められないかもしれない。それでも、やりたかった事の何割かは実現できるはずだ。

 もし、やりたいことに一ミリも関われなかったとしても、仕方がない。夢はなくとも生きていける。代わりに幸せと思しきものは、あちこちに漂っている。見つけようと目を凝らし、近付こうと藻掻くことはできるだろう。それが蜃気楼のように消えてしまうから、難しんだけれども…。夢が破れようがなんだろうが、その先にもいろいろな道がある。

 焼け石に水かもしれないが、水を注ぐ人の存在が、僅かばかりの勇気の種になることがあるかもしれない。もし挫けそうな人が居たら、なにか声をかけてやりたいと思う。

硬直とその破壊

プログラマに限ったことではないと思うけれど、仕事を始めたばかりの頃は新鮮なことに満ち溢れている。誰もが先輩で、全てが未知の仕事。そこでは、いろいろな知識が洪水のように流れ込んでくる。これは何だ、こんなものがあるのか、こうすればいいのか。ひたすら感嘆して日々学習していくだろう。中には、すぐにはできないこともある。理解できないこともある。それも繰り返し経験することで自分のものになっていく。

しかしながら、一年二年と過ごしていく中で、ある程度力がついてくると、考えなくても習慣で体が動くようになる。未知のことを既知のことでカバーできるようになる。これは「慣れてうまくやれるようになった」と言うことだが、見方を変えれば「新しい情報を取り入れなくなって硬直している」と言うこともできる。ぼんやり仕事をしているような感じだ。僕は、七年か八年くらい同じことをして、もう、すっかり骨抜きになって日々過ごしていた。つまらん、眠いとぼやいていた。

そんな状況では、周りで新しい技術が生まれ、知識の源がちらついていても「今抱えている仕事を終わらせなきゃいけないから」と目をそむけてしまう。逆に「暇なやつはいいよな」と内心で皮肉を飛ばしていた。仕事を終わらせると上司が次の仕事を出すので、その状況は永久に変わらない。今まで組織的にやっていた振り返りや改善活動も自然消滅してしまったから、いよいよ脳が働かなくなった。ひたすら眠い。

そういうとき、部署異動の話が来て、飛びついてしまった。新しい部署では、研究開発を行うことになった。でも、退屈でひたすら眠かった。そこでは、大まかな分野だけ指定されて「勉強してください」という放任主義だった。仕事をもらって、消化するというスタイルにすっかり慣れきっていたので、やはり脳が働かなかった。勉強しようと思っても眠くてしょうがない。興味も出てこない。

八方塞がりになって、こっそり転職活動をした。結果はあっさり落ちた。

ただその過程で、プログラミングに対する知識の浅さを思い知らされた。一つ二つの言語を使えたり、いくつかのフレームワークを使える程度では、あまり応用が効かない。学ぶのが遅い。なにかもっと概念的な知識、デザインパターンとかドメイン駆動開発とか、そういうものを理解していたらいいのかもしれない。あと、新しいことを学ぶときに英語情報しかないというのが本当に多い。だから英文を苦しみながら読むのではなくて、気軽にすばやく読めるようになりたいと思った。こういう感想は、ありふれた、衝動的なものに過ぎないけれど、ともかくそう感じた。

それから、今ある仕事を効率的にやる方法についても真剣に考えるべきだと感じた。ただそれは義務的に嫌々やることではない。切実にやるべきだ。カイゼンとかアジャイルとか形式を先に持ち出すべきではない。自分が悩み苦しんだことを、再び繰り返さない策を立てる。優先順位とかブレインストーミングとか KEPT とか一切しない。ただ心の中で最も負担に感じることや、関心のあることのみ考える。責任、恨み言、綺麗事、色々な本質でないことが混じるので仲間探しはしない。仲間を集めても、どうせ時間がないのでまた今度やろうとか、俺だけ苦労する義理はないとか、得意なやつがやればいい、とかそういう話になる。「みんなの改善したいことを探す」のはたぶん無理だ。だから「俺の苦しみ・非効率を取り除く」ことをまずは考えよう。不羈独立でいこう。

オクトパストラベラー

オクトパストラベラーというゲームを遊んだ。

どんなゲームかというと、八人の主人公を動かしながら、敵と戦ったり、ダンジョンを探検したり、街を歩いたり、ちょっとしたトラブルを抱えた人の手助けをしたり、という感じのRPG。九十年代のテイストを重視しているらしい。

僕が選んだのはオルベリクという元騎士。手短にいうと、次のような話。

オルベリクは友人のエアハルトと共に王様に仕えていた。双璧と呼ばれるほど信頼され重用されたが、とある戦争中にエアハルトが突如離反、王様を斬殺してしまった。国が滅び絶望したオルベリクは山村の村で名もない剣士として過ごしている。そんな中襲ってきた山賊の口から、エアハルトの名を耳にする。オルベリクは自らの正体を明かして、彼を追うことを決意した。

この導入は結構良かったと思う。名もない剣士が実は「剛剣の騎士」という大層な通り名を持つヒーローでした、という流れにはわくわくした。オルベリクは忠義に生きる武人という雰囲気だからさぞ激しい復讐劇になるだろう、と思っていた。ところが、そこからはエアハルト探訪記になる。エアハルトが罪を犯したのは何故か、ということを知るための旅。エアハルトは、結果的に何千何万の命を奪った男なのだから情状酌量の余地はない、と自分は思うのだけれど。

その後、色々あってオルベリクは剣を取る理由に悩む。そこでもドラマありそうなんだけど、特にない。関わってきた近しい人々を思い浮かべ、彼らを守るため剣を取る、という無難な結論に着地。大悪党を倒してオルベリクは村へ戻る。物語は終わり。うーん。僕はエンドロールで首を傾げた。一見ハッピーエンドなのだけれど、それで良かったのだろうか。釈然としない。

全体としてオルベリクは、もっといろんなもの背負ってるんじゃないか、深い悲しみを抑えているのかなと思っていた。しかし、クリアしてみるとその片鱗も見えなかったのが悲しい。あまりにも淡白。家族とか恋人とか姫とか、守るべき人を出して執着する方が良かったのではないだろうか。人々を守るためではなく、姫を守るためとか、妻子を殺した男を復讐するためとか、そういう強烈な感情を持っていて欲しかった。残念。オルベリク編については以上。他の主人公はクリアしてないのでゴメン。

上記のようにストーリーはもやもやさせられたけれど、遊んでいる道中はゲームとしてすごく面白かった。宣伝されていた通り、ドット絵は綺麗だったし、自然な明暗の表現、ぼやける遠景とかドット絵では見たことのない美しさがあった。街を見ただけでこれは新しいぞとわかった。バカでかいボスがでてびっくりしたり、主人公のジョブごとの衣装替えパターンで感心したり、細かな感動はたしかにあった。

バトルではブレイクとブーストという二つの仕組みが選択肢を広げている。そこそこ考えがいがあるし、上手くやればかなり強い敵とも渡り合える。簡単にレベルが上がって強くなるから、少し強い敵の出る地方へ行って、行かなくてもいいダンジョンを巡って、新しい街に着いたら買い物や盗みでさらにパワーアップして、また新天地へ…。というその繰り返しが中毒的に面白い。もうストーリーは進めなくて良いなと思えるくらい面白い。実際、プレイ時間の八割くらいはレベル上げをしていた。

あとひとつ、フィールドコマンドについて。これは、ほぼおかしい。罪のない村人に一方的な試合を挑んだり、モンスターけしかけたり、誘惑して連れ回したり、盗み働いたり。特に盗みはほぼリスク無しでリターン大なので、ゲームとしておかしい。バランスが破綻するほどではないから、村に宝箱が大量にあるだけだと思えば、おかしくはないのか…。そういう笑い話にできる程度には収まっているので、この仕掛けは成功しているのかもしれない。世界観的には、通りで堂々と行われる犯罪が見過ごされているので、心配になるけれど。

まとめると、オクトパストラベラーは変なゲームだったなと思う。犯罪じみたフィールドコマンドのせいで世界観がカオスで、ストーリーも何だか変。でも絵は綺麗だし、広い世界をうろうろして、ただただレベル上げしてるだけで楽しい。こういうゲームもっとやりたい。

嘘つき姫と盲目王子

嘘つき姫と盲目王子というゲームを遊んだ。

これは、本当に難しい。ゲームが難しいと言うわけじゃなくて、面白いか面白くないか、そう言う話をするのが難しい。パズルに頭を悩まされる場面はほとんどなくて、終幕まで五時間ばかりしかない。追加・収集要素にも乏しい。やりがいとか、満足感を与えてくれない。なんだじゃあ駄作じゃん、と言いたくなるんだけど、それでも何か、感動の五分咲きと言うか。満たされないまでも、心にくるものが確かにあった。だから難しい。

それはやっぱり物語の良さから来ているところが大きい。物語全体よりも、とにかくプロローグ、始まり、空気作りが完璧だと思う。簡単にあらすじを言うと下のような感じだ。

人間と化け物が対立する世界。化け物にとって人間は食料でしかなく、人間にとって化け物は恐怖の象徴だった。ある月の夜、狼の化け物が切り立った崖の上で歌っている。偶然それを耳にした王子は、その美しい歌声に聴き惚れてしまう。歌を聴くため、通い詰めるうちに、狼と王子は互いに関心を持つようになる。やがて、声の主をひと目見たいと感じた王子は崖を登る。驚いた狼は自分の姿を見られたくないあまりに動転して、王子の目を切り裂いてしまう。視力を失い、失脚した王子を救うため、狼は王子の元へ赴く。彼の手を引くため、姫の姿に化けて。姫の姿になるために狼が払った代償は、その美しい歌声だった。

こうして書いてみるとあっさりしているような気がするけど、絵と動きがつくと、切なさが倍増する。公式に配信されているPVを見るのが一番いい。


嘘つき姫と盲目王子 イメージムービー

本編にさえ含まれてない演出が大盛りで、物凄いドラマチックに仕上がっている。 狼は王子のことが好きなんだけど、そんな化け物が愛されるわけないから、嘘のまま接し続けなければならない。こういう爆弾を抱えて取り繕いながら過ごして行くところが、凄く物語的で良い。 下のようなモノローグも象徴的だ。

嘘の姿じゃないと… あなたに 触れられない

本当のわたしでは あなたに 触れられない

このストーリーと、パズルの仕掛けが本当にうまく噛み合っている。プレイヤーは狼を操って障害を排除して、王子の手を引く時だけ姫の姿に化ける。話してるとめちゃくちゃ面白そうに見える。

ところが、ここまでの前段があまりに完璧すぎて、そのあとが、あれっ、思ったより普通だなあと思ってしまう。他の化け物に襲われたりするけれど、基本的に狼は無敵。色々な起伏がありながらも、最後は何とかハッピーエンド、という感じだった。これがどうも童話っぽい感じでもやもやする。いや、それは正しい。優しい。綺麗な終わり方だ。めでたし、めでたしと結ばれる昔話に連なる王道だ。

そこでようやく、自分はもっと姫をもっと苛めて欲しかったんだなと気づいた。本編は優しすぎる。狼は強靭な肉体を持つのだから、ボロクソに傷きながら王子に尽くすことが可能だろう。そういう壮絶な献身を見たかった。変身する度に苦痛を伴うとか、爪が剥がれるまで走るとか、全身大火傷になるまで王子を庇うとか、もがきながら進んでいく姿を見たかった。そういう並み外れた苦難の中に、信念とか真心とかそういうものが輝くのを見たい。ハッピーエンドにたどり着くまでにもっと地の底へ落ちて欲しかった。サイコ野郎ですまんな。

そうして全部が終わって、確認のためいま一度ゲーム画面を開く。背を向けた狼が月を見上げながら、口をぱくぱくと動かしている。何かを歌っているようだ。背景に流れるピアノの音色が泣けと言っている。 この不完全な美しさよ。これまで話したことの全てを、一番最初の画面で想起させられる。それを駄作ということはできない。足りてない事がたぶん、いくつも挙げられるだろうけど、それをいちいち突きあげて何になるだろう。感動がぬるくなるだけだ。

悲しいことについて

腹膜炎とかいう病気で、ひたすらに眠っていた頃、ある夢を見た。二匹の猫を撫でたり、おもちゃで遊んだりする夢だ。どこかで見たことのある顔立ちだなと思ったら、かつて一緒に暮らしていた猫だった。すると、とてつもなく悲しい気持ちになった。僕はそいつらの事が気に入っていて、好きだったのだとわかった。

悲しいことがあった時、多くの人は気晴らしをする。好きなものを食べるとか、体を動かすとか、テレビを見るとか、とにかく悲しいことを放っておいて、楽しめることをする。楽しんでいるうちに悲しいことを忘れてしまうだろう。

夢に見た二匹のことも、そうして忘れてきた。いや、忘れているというよりも、記憶にふたをしているという方が正しいかもしれない。思い出さないようにしているが、何かの拍子にふたが外れると、思い出があふれてくる。彼らが命を落とす前のことは鮮明に覚えていて、それが一番悲しいことだ。

こういう事を何度か繰り返してきて、今またそれを体験している。ああ、そういえば悲しいなと思い出す。何か生きることの虚しさというか、終わりが訪れることへの不安とか、そういうもので胸がざわつく。いつもなら、悲しみが引くまで、触れないようにする。けれど、今はなぜだか、そうでもない。

猫たちの事を思い出すと悲しいのは、二度と会えないと信じているからだ。それなら、いつかまた会えると信じてみるのはどうだろう。生まれ変わるのかもしれないし、自分が死んだあと迎えにきてくれるのかもしれない。そういえば「虹の橋」という話が、まさにそう言っていた。いつか会えると。それはとても感動的なものだが、甘すぎる。それほど都合の良いことがあるとは、信じられない。

それなら、二度と会えなくても仕方がないと割り切るしかない。彼らは生きていた。その事実こそ幸運だったと感謝するのはどうだろう。悲しくなるのと同じくらい幸福な時間があったはずだから、そのことについて感謝する。悲しいのはしかたがない。悲しくても、暗い顔をしなくていい。悲しいまま楽しく生きていけるだろう。