父は戦争に行った

 父は魚市場に勤めている筋肉質な男だった。よく二の腕の筋肉を見せつけ、僕らに向かってぶら下がってみろと言った。そして、僕の体重ではびくともしないことを自慢するのだった。思い出すと笑えてくるくらい、芝居がかったやり取りだ。何かのドラマを真似していたのかもしれない。わからないけれど、僕らはそれくらい無邪気だった。

 そんな父が家を出たのは、もう二十年も前だろうか。自ら意気込んで戦争のために、人々のためにと志願したのだった。もはや記憶の中の父は幻のように霞がかっていて、その顔を思い出すことはできない。ただ、その時の言葉は覚えている。

「ちょっと行ってくるよ」

 タバコを買いに行くときと、ほとんど大差ない口調だった。僕は父がどこに行くのか、何をするのかも知らなかったため、笑顔で送り出した。母は黙りこくっていて不機嫌そうにしていたため、とにかく近づかないようにしていた。

 翌日の早朝。父の姿はない。それは、いつものことだ。市場の朝は早いのだから、慣れている。けれど、学校を終えて家に戻っても、いつまでたっても、父は戻らなかった。言いようのない不安を感じた。まるで太陽が登らなくなったみたいに、当たり前が訪れない。がっしりした、存在感の塊のような人が、いない。

 喪失感を強く感じているのは僕だけではなかった。食事の時間になると、母は陰膳を作った。淡々黙々とご飯をよそう姿は、鬼気迫るようであり、団らんの時間は訪れなかった。食器の音だけが聞こえる食卓は、ひどく居心地が悪い。僕は手早く食事を済ませて、逃げるように自室に戻った。母は何も言わなかった。

 幾日もそんな日が続いた。あるときから、家に帰ると、家の前に母が立つようになった。箒を片手に、掃除をしているふりをしているが、視線は忙しなく動いている。父を待っているのは明らかだった。僕は理解した。母にも、父の行方は知れないのだ。その時初めて「もしかして返ってこないのかもしれない」と思い至った。瞬間、全身が総毛立った。あんなに強い人が、消える。あの力強い腕に触れることは二度とない。この広い家で、あの姿を見ることがない。なにかめでたいことがある度に、満面の笑みを浮かべながら寿司を買ってきたあの人が。

 全部が終わりだ。悲しみで胸が苦しくなって、目に涙が滲んだ。かつて父は「泣くな」と言った。無理だ。涙が止まらなかった。声を上げて泣いた。僕をいつも慰めてくれた父はいない。いくら泣いても手を差し伸べられることはない。いつの間にか、母が憔悴した顔で僕を見ていた。僕は責められているような気がして、萎縮した。子供ながらに「自分は助けを求めてばかりで何もしない子供なのだ」と気づき、自分を恥じた。

 つぎの食事の時間、私は一人で母に話しかけた。その空間が嫌だったというよりも、まだ母が何かつながりを求めているような気がして、そうしたのだった。話題はその場で思いついたものにすぎない。学校でこんなことがあった。父はどうしているのだろう。このテレビ番組はおもしろいね。すべてが空振りして、私が苦しそうに話していると、母は初めて口を開いた。

「止めなさい」

 初めて聞く冷徹な声だった。僕は、冷水を浴びせられたような気分だった。何か、失敗しただろうか。考える間もなく、母は感情を剥き出しに僕を叱責した。

「あなたは、なんなの? まるで当たり前みたいに、毎日生きて。そんなに楽しいの? あの人がいま、どんな思いで戦っているのか、わからないの? わからないでしょうね!」

 そう言って、食卓に拳をたたきつけた。味噌汁の入った茶碗が倒れる。僕は、静かにそれを拭った。何も言い返すことはできない。終わりだ。父が終わったのと同じように、もはや母に頼ることもできない。ただ悲しむこともできないのだろうか。いや、違う。僕がただ悲しんでいるに怒った母は、父が今どうしているのかを想っていたのだ。戦地で傷ついているのか。冬の寒さに震えながら戦っているのか。飢えているかもしれない。その中で安穏と生きている僕はなんだ。きっとそれが許せなかったのだろう。命のやりとり。殺し合い。奪い合い。僕は、戦争も、そこに赴く人のことも一切考えていなかったのだ。

iPad Pro が届いた

 衝動的に注文した iPad Pro 12.9インチが届いた。意気込んで封を解き箱を開けた。とにかくでかい。今まで使っていた iPad mini の約2倍の大きさだ。引き継いだ色々なゲームを触ってみた。全部でかい。両方同時に動かしてみると、mini のほうは子供みたいだ。

 で、それからどうするのか。結局何も変わってない。今日は一日中ゲームしかしなかった。画質を落として遊んでいたアリスギアは、ものすごい綺麗になってすげえなと思った。とにかく女の子のモデリングがすごくいいので、まるで変態のように眺めてしまう。たとえ変態でなくても、年頃の女性をじっくり眺める機能を与えられたら、その気になってしまうんじゃないだろうか。そしてそれは悪いことじゃないはず。

 スマホで遊んでいたドラガリアロストもインストールしてみた。とにかく画面がでかすぎて笑えてくる。ボタンが引き伸ばされて、にじんでないかと思うくらい画面がでかい。おかげで、今まで小さすぎて見えなかったルクレツィアのホクロに気づいた。スピーカーも4つに増えたので、ドラガリアロストに入ってるほとんどの歌もよく聞こえるようになった気がする。今回のイベントの優しい感じの歌も良いと思う。

 最後に新作のロマンシングサガ・リユニバースを遊んだ。この新しいロマサガは、色々と過去のリソースを組み合わせて、現代のスマホゲームの文法に当てはめたみたいな感じのゲームで、つまりは結局ガチャとか育成とか、相変わらずそこにあるのはそれだ。新しく登場したキャラもいるけど、旧キャラクターが目立ちすぎていて、主人公の存在価値がよくわからない感じになっている。

 今回のロマサガでやっているような「過去の英雄を召喚してあれこれする」というストーリーは誰が始めたのだろう。有名所ではフェイトだけど、同じような筋の作品は珍しくない気がする。ドリフターズとか。キャラクターをたくさん出せるので、ガチャと相性がいいのだろうけれど、ロマサガがそうであったように、英雄たちが濃すぎて主人公を食ってしまったり、それぞれが噛み合わなくて話がバラバラになったり、決して簡単なフレームワークではない気がする。

 延々とオートプレイをしていると、不毛だなあと感じる。良いゲーム機を手に入れたとは思うけど十万円以上するからコストパフォーマンスは相当悪い。こんなことをしている隙があるなら、スマブラに手を出すべきなのかもしれないし、このまえの物語に書き足すべきなのかもしれない。でもなんとなく別のを考えてしまうので、やはり別の話を書いてみようと思う。

ニーナ

 疲れ果てて帰宅すると、着替えもせずにベッドの上に倒れ込んだ。疲れた。仕事がうまくいかない。全部がうまくいかない。帰っていいぞと言われるまでただ壁の模様を眺めていただけだ。それなのに疲れている。精神か。あるいはそれ以外の魂が疲れている。もう休もう。そう思っているのに、頭の奥に何かが引っかかっていて、穏やかな眠りがやってこない。しかたなく身体を半分起こして、携帯に話しかけた。

「ニーナ、なにかおもしろいことはないか?」

 キャスターのように正確な音声で、彼女が今日の出来事を読み上げていく。日々投稿される膨大なニュースの中から人工知能が、おもしろそうなニュースを選び取っているのだ。私の個人情報に基づいてカスタマイズされたそのニュースたちは、それなりにいいところを突いていた。

 けれど悲しいことに疲れた身体はそれを受け入れようとしないようだ。普段なら笑っているだろうな、と思うような動画が流れている。それを冷たい目で見ている自分こそが滑稽だった。やがて社会面に入る。いつものコースだ。けれど真実は、どうでもいいことだ。私が収集している情報の中には、興味や関心に基づくものなく、人に合わせるために仕入れているだけの情報もある。それは私にとって義務であり苦痛であった。ニーナはそこまで区別できなかった。

 習慣につられて、興味もないのに、耳を傾けている。今は何の感動もおこらないが、枯れ果てた井戸を掘るように、少しでもなにかの潤いを求めている。だが、そこにはなにもない。私はその内容を一切聞いていない。音だけを拾っている。優しく正確な発音を心がけるニーナが哀れに思えてきた。「もういいよ」と命令を断ち切った。深い溜め息がこぼれた。彼女はそれをとがめた。

「なにか心配事でもあるのですか?」

「心配事だらけだ」と返したかったが、そのまま話を続ければ、彼女はその心配事を一つ一つ追求してくるだろう。またため息がでた。同じ問答が起きる。これでは永遠に終わらない。私は、いくつかの心配事の中から、もっとも素直で難しいものを選んで、彼女に問いかけた。

「私たちが生きているのはなぜだろう?」

 口に出した後、あまりにもくだらない問いかけだと思った。答えがあるかどうかなど期待していない。むろん、即席の答えを見繕うことはできるだろう。生き物の定め。本能。喜び。罪。願い。歴史。その他の似た言葉。どれも、心を撫でることもない空虚な言葉だ。私は納得しない。かぶりを振って思考を追いやる。

 奇妙なことに、ニーナも言葉を失っていた。それは、検索と通信によるものだろう。思考によるものではない。どこかの哲人が編み出した欺瞞か、あるいはなんとでも解釈できる玉虫色の答えか。どれにしようかニーナは迷っているのだろうか。そんな野暮なことを考えているうちに、携帯の中でニーナはつぶやいた。

「静謐」

 思わず私は聞き返した。同じく美しい発音で、静謐とただ一言返ってきた。それはまるで魔法のような、謎掛けのような一言だった。私はその曖昧な言葉に不快感をおぼえるよりも、むしろ強い関心を抱いた。いつも流暢な彼女が、なぜただ一言しか発しないのか。会話を拒絶しているのか。角度を変えて踏み込んだ答えを求めても、まるで固くブロックされているかのように、辞書的な意味を述べるばかりだ。

 私は推測する。それはプログラマの手によるものではないか。検索や人間を模倣するアルゴリズムによって得た答えとは思えない。この絶妙の間と、紡ぎ出すような一言は、予め人間が組み込んだものだ。つまり、人工知能ではなく、人間の答えだ。一体誰がそうしたのか。ニーナを生み出したのは一個人ではなく企業であるため、その影にいる個人の姿は見えない。

「お前は誰にそのことを教わったんだい?」

 私は聞いてみた。ニーナははぐらかしている。拗ねるように「そんなことを聞かないでください」と言う。それもプログラムされたものなのか、あるいは人工知能の汎用的な答えなのか。私はすっかりニーナのことがわからなくなった。こんなことではかえって眠れなくなるではないか。私は身体を起こして、スリープさせていたパソコンを叩き起こした。明日はぼろぼろになっているだろう。「単なるいたずらかもしれない。馬鹿馬鹿しいことだ」独り言を言いながら、ニーナを開発した会社とプログラマ、あるいはそこに使われているアルゴリズムについて調査を始めた。

いきなり学生編

 へいおまち。

 小学校の頃は、教師になりたいと考えていた。この理由は、はっきりと覚えていて、それは自分の担任の先生が優しくて面白い人だったからだ。その先生は、珍しいことに図工を専門にしていたらしくて、学級だよりとか、何か配る時に、手書きのイラストを書いていた。あと、図工の時間を長めにとったりとか、色々と工夫してくれていた気がする。もう具体的に何だったかは覚えていないけれど。糸鋸とか使わせてもらったり、色々やった。だから、そういうのすごいと思って先生になりたいと思っていた。それは、たぶん一般的な教師になりたかったんじゃなくて、その先生になりたかったんだと思う。

 中学校の頃は、けっこう面白い教師もいたけれど、それ以上に嫌な教師がたくさんいたので、教師になりたいとは思えなくなった。兄の影響で吉川英治三国志とか読んだり、叔父の影響で三毛猫ホームズとか読んでいたので、活字に触れることには抵抗がなく、国語得意なのではと思い始めた。少し文章を書いてみたりもしたけれど、ほとんどが支離滅裂なギャグ系の文章で、今よりもずっと本能型だったと思う。夢とか目的は全然なくて、ゲームが好きだったからゲームプログラマーになりたいな、という気持ちはあった。ゲームを作る人はディレクターとかプロデューサーとか、プランナーとか色々あるはずなのに、なぜプログラマーしかないと思っていたのかよくわからない。たぶんバカだったんだと思う。毎日のように格闘ゲームした。

 高校生の頃は、一年生はほぼ格闘ゲームしかしてなかったけど二年生あたりから、かなり真面目に生きた。先生が野球部で体育会系なのに優しくて数学担当、という稀有な人だった。体育会系といえばチンピラだと思っていたのが大きく覆った。先生はかなり真面目な人だったので、この人に褒められたいと思って真面目に勉強した。三国志読んでたバフのおかげで、古文とか漢文はめちゃくちゃ得意だった。何も勉強してないけど文法の八割くらいがわかって国語無双した。さらに、叔父がゆずってくれた森博嗣の本にいたく感動して、中二病を超えた自意識過剰な状態になる。かなりポエムを書いた気がする。誰にも見せてないし、もうとっくにゴミ箱行きだが。なりたいものとか目標はなくて、ただ親や先生に認められたいから真面目に勉強した。

 大学生の頃は、まあまあ真面目に生きた。友達は一人しかいなかったので、やることがなくて勉強していた。もはや認められたい人もいなかったので、何か「勉強真面目にしてる自分格好いいのでは…?」みたいな感じで勉強していた。しかし大学は割と理不尽で、教師がお気に入りの学生を優遇したりするし、先輩とのコネがある人だけ過去問を入手できたりするので、不信感がけっこうあった。そのころ目的があったかというと、あんまり覚えていない。たぶん目的はなくて、誰も認めてくれないので勉強するのが馬鹿らしくなってモンハントライとぷよぷよフィーバーに没頭していたと思う。でもたぶん成績は自分のアイデンティティの一部だと思っていたので、成績だけは落とさないようにしていた。

 大学院の頃は、研究室の後輩が格闘ゲーム好きだったので仲良くなれた。ただ教師に「何をしても怒られるしダメ出しされるので、何もできない」という状況になって保健室行きになった。これまではたぶん「先生=褒められたい人」がほとんどだったので、ただひたすら頑張ったし気に入ってもらおうと思って努力したけど、それは意味がないんだと気づいた。そして「その男=ぶっ殺したい人」なんだと理解してからすごく楽になった。おかげさまで、かなり頭が働くようになったと思う。ここで清濁併呑の感覚が出てきたような気がする。目的とか夢とかは考える余裕はなくて、とにかく入れる会社なら何でもいいと思って就職した。

 就職してからの話はまた明日。

くすぶる夢

 「小説書くって言ってたけどどうなったの?」と聞かれた。素晴らしい指摘だ。一言で答えるなら「書いてない」ということになるが、書いてないことから気づくことがあったので、まとめてみよう。

 夢というのは二つに分かれるような気がしている。一つははじける夢で、もう一つはくすぶる夢。

 はじける夢はとても簡単で、たとえばプロ野球選手になりたいとか、棋士になりたいとか、そういう感じのもの。成長していくうちに無理だということがわかるもの。年齢的な限界があるもの。取り組んでいたとしても「ああこれで終わりか」と感じるような終息するときがかならず来る。どんなに頑張っていても、ある時シャボン玉がはじけるように全てがなくなる。それからは別の道を歩まざるをえなくなる。

 一方のくすぶる夢は、漫画家になりたいとか、小説書きたいとか、弾き語りしたいとか、そういう感じのもの。いつまで、という終わりが不明確で、年齢的な限界がないもの。必死にやっていようと、気まぐれにやっていようと、終わりは来ない。うまくいかなくて、あるいは時間が足りなくて離れたとしても、燃えさしがずっと残り続ける。

 よくいる売れないシンガーソングライターとか、くすぶる夢の代表選手だろう。もしかしたら売れるかもしれない。あるいは、好きで続けていてやめられない。人々に認められるだけの作品を打ち出すことはできないけれど、何か沼にはまったように、そこに居続ける。

 これは、不毛なことなのだろうか。全力で打ち込むことなく、ただずるずると同じことを続けているのは。完全燃焼して、砕け散るほうがまだいいのだろうか。砕け散った後大成しないとわかっていて、続けるのは許されるだろうか。いや、許す許さないとか、良し悪しなんてものはない。本人がよければそれでいい。というのが常識的な判断だ。うまくいくかどうかよりも、楽しめるかどうかのほうが大事だ。

 でも、そんな当たり前の答えに着地しても、ちっとも嬉しくない。もっと心を奮わせるような答えはないか。そう考えてすぐ思い浮かぶのがラブライブの歌だ。「勇気はどこに?君の胸に!」という歌でうたっている。

何度だって追いかけようよ 負けないで 失敗なんて誰でもあるよ 夢は消えない 夢は消えない 何度だって追いかけようよ 負けないで だって今日は 今日で だって目覚めたら 違う朝だよ

(三十分ほど曲を聞く)

 聞いてると頑張ろうと思える。楽しめるかどうかじゃなくて、くすぶる夢であっても、それを追いかけることがとても素晴らしいことのように思える。そして、なんでそうするのか? それは「だって、目覚めたら違う朝だから」すげーわけわからん。だがそれがいい。力が湧いてくる。あとユメノトビラとかも聞いとけばおk。

善行できるかな

 善行というものについて考えた。電車でお年寄りに席を譲るとか、道に迷っている人を案内してあげるとか、落とし物を拾って手渡してあげるとか。そういう助け合い精神というのは動物にもあるらしい。この前、自分の子供じゃないのに、群れの中にいる子供を助けたゾウの話を聞いた。それはたぶん、合理的だからそうするのだろう。余裕のある者が、余裕のない者に手を差し伸べる。それは、分子の結合みたいなもので、持たないものと持ってるものが結びつく自然なことなのかもしれない。

 だから、おそらく多くの人が上に挙げたような善行はするべきだし、自然とできるほうが好ましいという教育をされてきたはずだ。それは確かに合理的なので、そうしたほうがいいだろう。けれどしかし、実際には、誰かに席を譲ったり、何か善行をするのは難しい。

 それはなんでだろうか。一つには、その人が本当に余裕が無いのかどうかわからないから。もしそこを読み違えてしまうと、失礼になるかもしれない。なぜなら「あなたは余裕がなさそうだから席を譲ってあげるよ」という押しつけになってしまうので。そこで、断られてしまったら、なんとなく居心地の悪い感じになってしまう。逆に、青い顔で立っているのも辛そうな人なら、席を譲りやすくなる。

 もう一つは、困っていてもなんとかなるような時代になってきたから。たとえば道に迷っていると言っても、最近の地図アプリは優秀なので、ゆっくり時間をかけて調べれば、目的地までたどり着けるだろう。困る状況が減っているので、助ける機会も減っているというわけだ。

 さらにもう一つ。自分じゃなくても誰かが助けにはいるだろう思ってしまうから。有名な「誰も消防車を呼んでいないのである」というやつだ。火事というのは目立つし、たくさん人が集まってくるから、誰かが消防車を呼んでいるだろう。助けに入るだろう。と考えて誰も動かなくなるというパターン。

 まだもう一つある。一番言いたかったやつ。それは「何かっこつけてんの?」と思われたくないからだ。率先して善行をやるのは、どう考えても目立つ。それは点数稼ぎみたいに見えるし、何か社会に対して媚びているような感じさえする。誰も見ていないところでも同じ善行ができるのか。心からその善行をしているのか。ポーズだけじゃないか。そういう不思議な、合理性とは関係のない所でプレッシャーを感じて、踏みとどまってしまう。わけがわからない気もするけど、自分はそうだ。

 「これって、あれじゃない? 席譲ったほうがいい系の流れ? うーんどうしよう。ああでも、何かこう大丈夫そうな感じ? だからまあ、ちょっとくらい我慢してもらって、そのままでも大丈夫だよね。うんそれでいいや」みたいな感じの見逃し善行がわりとある。こんなしょうもない葛藤をする度に、しょうもない大人になっちゃったなと思う。警察官とか、教師とか、何かを背負っている人たちだったら、見得を切ることもなく、さらりと善行できるんだろうか。

 それにしても、なんて人間はめんどくさいんだろう。「余裕あるけど、余裕あげようか?」みたいな単純なことのはずなのに。

苦手なもの:街

 少し用事があって、一人で街の中央に遠出することになった。グーグルマップを開いて、目的地を検索する。職場から一駅離れた場所だということがわかった。それなら多分行けるだろう。

 前準備はそれだけで、当日になった。すると、かなり緊張して血の気が引いた。小便を漏らすんじゃないかというくらいの状態で歩いた。それでも、どうにか目的地までついて、用事を終わらせた。ほっと一息ついて足を休める。ただ街を歩いただけなのに、言いようのない寂しさを感じた。

 それはたぶん、何も知らない自分を思い知らされたからだ。わずか一駅離れただけなのに、何も知らない。綺麗な店。高いビル。光る看板。きらびやかなものが、ものすごい密度で、把握できないほどの施設が集中している。歩いても歩いても立ち並ぶ。目眩がしそうなその中を、周りの人達はすいすいと歩いていく。

 彼らにとってはそこが居場所なんだと思った。そこに、言いようのない溝を感じる。ふいに、友人から一報が届く。「こういうレストランに行ったよ」とそれだけの話しだった。良かったねと適当に返事をしながら、添付された地図を開いた。ここから一駅くらい離れた店からだった。こんなに近くなのに、わからない。ああやはり、自分は何も知らないのだ、と立ち竦んだ。地図アプリが気を利かせて、他のレストランを提案してくる。そのまま任せてみると、 画面が窮屈になるほど候補が出てきた。知らないものばかりだ。地図を縮小してみれば、さらに知らないものだらけになる。少し北の方を眺めてみる。色々なお店や観光地が流れていく。

 とてつもなく寂しい気持ちがした。ただひとつの街でさえ、知るに及ばない。日本でさえ果てしなく広い。世界を見る気にもなれない。自分は、圧倒的に小さな生き物にすぎない。外に出る気概もない。旅人の話を聞いて、遠くへ思いを馳せることはあるけれど、そういう自分に同じ経験ができるのか。圧倒的に生き方に違いがあるという事に気がついて、無性に寂しくなった。